この法をば信ずる衆生もあり そしる衆生もあるべし
真宗聖典632頁
世に十人十色といいます。人、それぞれに顔・容姿の違うように、考えかたもまた各人 各様であります。それで仏教では、人間のことを異生・・・みんな異った生きかたをしている ・・・とも名づけるとのことですが、「生因まちまちなり」ともいわれるように、人、その人 にはその人なりの歴史があります。そこに同じ物事についても受取りようも異ります。ま して、自分の都合を振りかざし合うていくものですから「同心」する筈がないのであります。 人間。このことばは、本来、人間(じんかん)と読まねばならないであろうと、さるお方 のお話を承まわったことがありますが、まさしく私たちは「人」、と「人」との間にはさまつ て「お邪魔」している存在ですね。それでいて、他人さまの都合など斟酌なしに振舞ってい るものですから、そこに火花が散るのもあたりまえな話です。さりとて他人さまを立てて いてはわが身が立たず。まこと厄介なことです。 「他人のやることは(その善悪が)よくわかるが己が振舞いのことはいつこうにわからな いものだ」と日頃聞くことですが、これをいま一つ案じてみれば、それは自分の「都合」 に「邪魔」になる面がよく見えて、己れが(他人さまに)「邪魔」していることにはなかな か思いいたらぬということでもありましょう。ここにおいて私らのいう善悪とは、自分の 都合によって・・・ということがよくわかります。 もともと、人間、つまるところは孤独の身でありましょうが、それだけに実は人恋しさ を抱いているのではないでしょうか。 いつも思うことでありますが、朝夕生活を共にしている間柄、顔を見合せて暮している 者同志ほど、形は一番近くにありながら心は一番遠く離れているようです。相手のアラを 見知っていること。相手からも知られている気まずさが根底にはたらくからでしょうか。 しかし、「裸」でおつきあい願える場所はここだけであります。親子。夫婦。家族同志 ・・・。この間柄においてこそ私は身を置かせていただいているのですから。わたしのため にずいぶんご苦労かけるんだなア・・・。近頃ようやくにしてそれが思われます。 ここ、甑島では会う人ごとによく「ご苦労さま」という挨拶を受けます。思えば恐縮千 万な次第です。 私もまた他人さまに素直に「ご苦労さま」と言えるようでありたい。 ここに相手の「ご苦労」が「ご苦労さま」と頂けることは、すでに私から起る心ではな いでありましょう。お育てにあずかった身の幸せだと思います。 標題のご文の「そしる衆生もあるべし」というお言葉は「そんな輩は放っておけ」との おこころではありますまい。「そしる衆生」は「そしる」というすがたで、この法の真実なる ことを証明しているのであります。
・・・人間はなかなかに真実を受けと難しと。
それだけに、わが身にたまわった一切の方がたの「ご苦労」を「ご苦労さま」と、どう やら肯づけるまでにお育てを受けてきた身の果報のほどが思われることであります。 (昭和53年12月)2006年8月26日