聖徳太子

聖徳太子讃仰
・・・法語カレンダーに拠りつつ・・・(1971年度)
和國の教主聖徳皇
広大恩徳謝しがたし
『皇太子聖徳奉讃・第八』真宗聖典508頁

人も知るごとく聖徳皇太子は仏教を我が国に取り入れてくださったお方である。ただ導 入されただけでなく、自ら深く敬信しそのご生涯を通じて処生の大綱とレて実践せられつ つ普く人々に化を施していかれた。 著述せられた『法華経』『維摩経』『勝鬘経』三部の疏は、日本人によって初めて著わさ れた仏書として後世に多くの範を垂れていられる。 親鷺聖人は「和国の教主」、日本における釈尊ともいうべきお方として、殊に仏教弘通の 恩徳を感佩し、『皇太子聖徳奉讃』二真宗聖典507頁)の和讃を以て讃えていられる。 和国の教主聖徳皇
広大恩徳謝しがたし
とはその一節である。 太子は摂政の宮として国政を司どられたが、その根底を仏道に置かれたことは、示した もうた憲法、わが国最初のものといわれる『十七条憲法』にうかがうことができる。 「和かなるを以って貴と為し
忤うること無きを宗とせよ」(聖典963頁) とのお言葉は治世の根本理念であり、自他ともにねがうべき「大和」の国建設の大いなる 願いのお言葉であろう。 お互いに斯く願いつつも現実には争い・諍いの絶えない人の世を悲泣しつつそこに仏陀 のみ教えによるほかなきことを示されたことと拝察する。太子は、政務の煩わしさを避けてよく、 「夢殿」にこもらせられたということであるが、これは、 単なる逃避ではあるまい。ともすれば自身も押流されようとする濁世の渦を避けて、 一人静かに座して思惟し直道を見出してそれによってことを裁断する。その為の思惟の場 として「夢殿」に入られたのであろう。そこより立ち出でられたとざ、 よく一時にして七人の訴えを裁きたもうたという叡智のほどは後世に伝えられるところである。 「それ三宝に帰りまつらずは、何をもってかまがれるを直さん」 とのお言葉に御治世の根本的なお心構えを拝することができる。 太子はまた実に孝心篤きお方であられた。御父陛下の御病のあつきを憂いたまいて、 その御平癒を祈念せられた折のお姿を「太子、孝養の図」と呼ばれて今日拝ませていただく のであるが、御身に法服を召され香炉を持して立ちたもうお姿は、 人の子としてあるべき道を示してくださる無上のみ教たである。 まことに太子は仰いで無上の師であり、その示したもうところはよくわれらの躰すべき無上の道である。 わが国に仏教を取り入れ、われわれの践むべき道を開いてくださったご恩徳はまことに謝しても謝しがたきものである。 「儲君もし厚恩をほゼこしたまわずは、凡 愚いかでか弘誓にあうことを得ん」(『御伝紗』聖典725頁)とのおことばのごとく、 たまたま弥陀の弘誓に遇うことを得た身の喜びよりして一入深く太子の御恩徳を拝しつつ謹ん でそのみ教えを承っていきたいものである。 今年は聖徳太子の1350回忌にあたりますので本山発行の暦、今年度の法語に聖徳 太子のお言葉が引用されて居ます、これを拝読するにあたり初めに太子の御徳を述べ 讃仰の微意を表した次第であります。

2006年8月5日