故郷(ふるさと)

いつも身躾みの良い彼が近頃どことなく冴えない。とりわけ不精髯を伸ばしているわけ でもなく、ワイシャツがくたびれているのでもないが、心なしか顔色もすぐれないのであ る。そんな彼に社員たちはそっと流し目をやりながら、ひそひそと噂し合うのである。
「そんなに会社の経営が苦しくなっているのかな」
「売れゆきが落ちたのかな」
「いや、資金繰りが窮窟になってきたんだろう・・・」
「ぢやあ、いよいよ操短か」
事実この会社は、近来行き詰りつつあるのである。社長たる彼はなんとかこの苦境を乗り きらねばと、寝ても起きてもそのことで精いっぱいである。 以前は、週に二回は理髪店に行って、いつも襟足をすっきりさせていたところに、彼の身躾み のポイントがあったのであるが、この頃では、その暇もない。それどころではないのである。 その彼が、久しぶりに理髪店に行った。ある人に折入っての相談におもむくのに、礼儀と して身の廻りを調えるためにである。店の主人も嬉しそうに彼を迎えてくれた。
「しばらく、お見えにならないのでお国に行って居られたのだろうと思っていましたよ。お 宅はたしか鹿児島でしたね。」
「いいですね。故郷のある方は・・・。わたしなど、なまじ東京生まれの東京育ちなもんで 田舎を持たなくて何だか淋しいですよ。良いですね。田舎は・・・。身も心もやすらぐで しょう・・・。
わたしはネ。時々、八方塞がりだと、気が滅入ったときはよくお墓まいりに行くんですよ。 ご先祖さんに相談してみるんです。いやア、甘ったれた話ですがね。 すると不思議に、もう一度起き上る気力を取り戻すんですよ。」
主人の話を聞いていた彼にハッと一つの閃きがあった。
「正直なところ、ここに帰ってきて、誰かに融資の相談をするつもりでした。だけど、私もお 墓まいりをして、そのとき気付かせて貰ったことがありました。お金の調達もだが、もっ と根本的に考えなきゃならんことがあるのに気付いたんですワ。原点にかえるというん ですか。仕事のやりかた全体をもう一ぺんよく見直してみようとです。」
「具体的には、会社に戻って、皆とよく話合ってみるつもりですが、きっと方法はあると思 います。
やはり、故郷に帰ってきてみて良かったです。」 何年ぶりかで、帰って来たので先祖追恩の法要を、つとめていただいたのだという或る人か ら聞かせていただいた話である。
「うちの親父はいつも口癖に言っていました。むやみに他人に頼るな。自分でやれるとこ ろから手をつけていけ。一つ一つやりあげていけ。
今度久しぶりにお墓まいりして親父のその言葉が聞こえました。」 その人の顔は実に明るかった。(昭和53年9月)

2006年8月29日