お給仕申しつつ(昭和53年)
お灯明をささげる

わたしたちは、仏さまにお参りするとき、まずお灯明を点す。いまではすでに常識とさ れ、習いともなっていることであるが、これにはどういう意味があるのであろうか。 第一に考えられることは、「光」はみ仏の御ン智慧を象る。仏の光“智慧によって明らか に照らしだされることによって、わたしたちは、ものの道理を知らさせていただく。すなわ ち真実の道を、知らせていただく。さらには、わが身を知らさせていただくのである。灯明が 点されるのは、わたしが教えに遇うている姿なのである。 ローソクは、本来燃えるように出来ているが、われとみずからは火を発することはできな い。火が移され、点されて、はじめて燃えるのである。如来の願いに呼びさまされて、はじめ てわが身の深いところに懐いている真実の願いが呼びさまされるすがたではあるまいか。 ローソクが燃えるということは、わが身を次第に亡くしていっていることでもある。し かし、燃えること自体に、ローソクの勤めがあり、意味を持つのである。 わたしが真実の願いに目覚め、教えを受けていくことは、日常の営みを通して生甲斐を持 ち、わが身の出世本懐を成就することでなくてはならない。わたしにおける出世本懐とは 「唯、弥施の本願を聞かんがため」である。教えに遇うことによって、はじめて生まれてき た意味を持つ。かけがえのないわが身をあてて、取返しのできないこのたびの生涯を大切 にしてゆくほかに、ご恩に報ゆるすべを知らないわたしであってみれば、ひたすらおのが 業を励んでいくばかりである。 ローソクがわが身を燃していく姿に、わたしはそれを思うのである。 火を頂いて、はじめてわが身にも点され、ささやかながらもあたりを照しだしていくロー ソクの営みは、点してくださった元の火に応えていく姿でもある。 如来の本願よりいでたもう招喚の声・本願の名号に応えるわたしの声もまた、如来のみ名 であるところの念仏である。念仏はまさしく如来とわだしとの「対話」である。 ローソクを点して灯明をささげることはこの対話の姿ではあるまいか。 仏さまにおまいりするとき、第一に灯明が点されるということは、このような意味では あるまいかとひそかに思うことである。 (昭和53年3月)

2006年8月30日