お花を供える
人間が、花に心を寄せ花を愛でるようになつたとき、はじめて他の動物と違った人間らし い情を持ち得たのではあるまいか。 愛しい人に花を贈り、敬う人に花を捧げる・・・。いつのころから、そうしたしきたりが行 われたのか知らないけれど、遠い昔からのことであろう。それはわが真情をあらわすしる しであった。 仏前に花を供えるのも、ひとえに崇敬(おうやまい)の心に外ならない。教えを受けた身 の喜びを花に托してささげまつる・・・。信心歓喜のこころをあらわすといわれ、またささ やかな報謝の行いともなっているようである。 花のある世界は明るい。わたしたちは、花によってどれほど慰められていることであろう。 とこま 床の問の一器の花に。茶棚の片端の一輪の花に。花はまさしくわたしたちの生活の中 に溶けこんでいる。それは、まずみ仏に花を捧げる心から始まったにちがいない。 み仏に捧げた花に、まずわれ自身が慰められ喜ばせてもらう。ご当流において、お花はすで にして如来の御廻向をあらわすと示されるが、それは、腸わりたる信心の喜びであり、花と 開いたすがたである。 花は、いのちをあらわす。草木が懸命に生きているすがたであり、ひたぶるに「実り」に 願いをかけている姿である。花は、実を結ぶためにせい一ッぱい開いている。いわば完全燃 焼している姿である。だから、実りの因縁がととのうたら静、かに散っていく・・・。仏前に供 えるのに、造花を用いないということもむべなるかなである。 願いを持つ者は、つねにみずみずしい。花は、まさしく如来の願いをわたくしに語りかけて くれる。如来の願い(本願)によって、わが願いも、また開かれてくるのである。深いところ にあるわが身の願いに目覚めるとき、かけがえのないこの身と知らされ、取りかえしのつ かない今日の一日をせい一ッぱい生きさせていただくのである。 仏前の花が枯れているのは淋しい。さながら、わが心も枯れているのである。ささやかな 草花一輪でもよい。いつもみずみずしいお花を供えておきたいものである。 仏恩に生かさるる身のせめてものご報謝として・・・。 (昭和53年4月)2006年8月30日