香を焚く

仏前に詣るとき香を焚くことも皆に知られている習わしである。
そのこころは、先づ我が身の穢れを浄めて尊前に参ずるというにある。そこには、わが身を 罪深く穢れ、多いものという懺悔の思いがあるのである。その慎しみから香を焚いて身を浄 めて、はじめて仏を礼したてまつるという行儀が行われる。
しかし、わたしたちはそうした深いところに思いを至すこともなく、単なる習俗として 行ってはいないだろうか。 他宗においては、香を薫じ或いは拈ずることについて、くわしい意義が説かれているとい うことであるが、ご当流においては、ことさらのお話はなく、ただ素直に香を焚くとだけ教 わっている。それは香を捧げて追福を念ずるといった、いわゆる「手向け」の思いをたし なめてのことである。むしろわたくしは一撮の香の香りの中にもわが身を痛む懺悔のここ ろと、仏恩を拝する報謝の念をこそ呼び覚ましたいと思うのである。

染香人のその身には
香気あるがごとくにて
これをすなわちなづけてぞ
香光荘厳ともふすなる
(『浄土和讃』)

と、『御和讃』にあるとおり、獲信の人を染香人と讃えられているが、それは日常の起ちふ るまいの中におのずからなる感謝と報恩の思いが薫るがごとく身についているどいうこと であろう。あらま欲しいところである。
だが、ここに「臭み」といわれ、いわゆる「鼻つまみ」されるようであっては話になら ない。いにしえ、さるお方は「あるべきようは」と七字に押えて「・・・らしく」。「・・・ぶ るな」といましめられたと聞くが、おなじく「におい」でも「匂い」と「臭い」の二通り の文字を用意された先人の智慧には頭の下ることである。 「信火うち(内)にあれば行煙そと(外)にあらわる」ということばがあるが、この場合 の「火」は激しく外に燃えでるのでなく、静かに内にひそんでいる。しかも何物にも打ち 消されない強さをを湛えて・・・。そういった態のものであろう。そしてそれは自らを深く 促して報恩の行に赴かしめる。そうしたなかから日常のふるまいの中に「見せかけ」でな い「つくりもの」でない、むしろ、あるがままの生活のうちにおのづから匂いでるものがあ るということであろう。
如来の本願に薫習せられた身の徳というものであろう。
ご尊前に香を焚きつつ、これらのことが思われることである。

2006年8月30日