輪灯ともる

仏前に端座して灰かにゆらぐ輪灯の火を見つめると、なにかほのぼのとした暖かさをお ぼえる。赫々と周囲の闇を照し破る強さではない。わずかに尊形を浮びあがらせるほどの 幽な光である。そのゆえにいっそう心はひきしまり、見上ぐる御本尊の御ン顔がなつかし いものに拝される。心あたたまるものを覚ゆるのは、この輪灯の灯のおだやかさによるも のと思われる。 他の宗派においても用いられるのかどうか詳しくは知らないけれど、わたしたち凡愚の 者にはこの輪灯はまことにふさわしいみ灯明とおもう・・・。
ぐいと丸められた一本通しの輪型は、わたしたちの輪廻の生をあらわすようにおもわれ るがいかがであろうか。 一本作りなのは、ご当流の「一心一向」を示すと、さる先師からご教示にあずかった。 ついでながら、お西さん、外のご流派にて用いられる"菊の花つなぎ""下り藤""牡丹" 等の、それぞれ花をあしらった作りは、「聞く(菊)」(聞かれた身)は頭が下がる(下り 藤)。聞けば摂取の「抱き牡丹」と「信」の世界をあらわされるものという。
さきに私は輪灯の明りに心あたたまるものを覚えると書いたけれど、実はこの輪灯は、 私たちの生きざまを示すのだと、さきの先師に聞かせていただきハッと気付かしめられた のである。すなわち、もののいのち(エネルギー)を絞りつくした油を吸いあげて燃えつづ けるその灯火は、そのまま、あらゆるもののいのちを、喰らって生きている私自身の貧婪な 姿を見せてあるものだという。 まことにそのように浅間しいわが身でありしかもそれをしないでは生きてゆけないわれ の罪の深さを、おのが生きざまを目前に掲げて深く改悔懺悔してゆくよすがとして輪灯が 用いられるとのことである。 ここにも私たちの先祖のかたがたの慎しい心と、暮しの中に仏法を仰いでいかれた実践 の姿がみられるのである。 さらに思えば、・・・これは私がひそかに窺うところであるが・・・。こうした罪深い私の うえに、さればこそ、ひとしお悲憐したもう如来の大悲の御ン眼差なるが故に、仰ぎみる目 に懐かしみを感じ、ほのぼのとしたあたたかさに包まれるやすらぎもあるのではあるまい か。 輪灯に火をともして仏前に坐すということは、わが身のいたみを通して如来のおこころ を仰ぐ、仏法にあう大切な行儀の一つだと思うのである。 (昭和53年6月)

2006年8月31日