お供物を捧げつつ
さる日、一幅の絵を見せていただいた。 図柄は、苦行の森を出てこられたお釈迦さまが、河のほとりで手足を濯いでいられるお 姿である。そのお身体は痩け細って痛ましいかぎりながら、お顔は明るく、御ン眼は期す るものあるがごとく光を湛えていられる。 これまでのバラモンの行者としての道を捨て、ご自身の深い決意のもとに最後の思惟に 入られるに先立って、身心の疲れと垢を洗いさられる光景を偲びつつ筆を取りましたと、 作者・谷恵観老師は語り、さらに四囲の風物に込められた一つ一つの意味を説明して下さっ た。 すべては『大無量壽経』に説かれるご文に則ったとのことであり、よくそのこころを表 わしていると感じつつ、画くお人の心の深さに頭の下る思いであった。 わけても空中高く、天女が水瓶を捧持している姿が印象的である。これは村の名もなき 一人の乙女が、苦業に窶れたもうたお釈迦さまに一掬の水を差上げたという故事を象徴さ れてあるのである。 わたしはこの絵を見せていただきながら思い浮べたことがある。. お釈迦さまに最初に供養を捧げた者としていまの乙女の話(一説には乳を捧げた牧童) と、最後にご供養申しあげた鍛治屋の話。この二人は「最初」と「最後」ということで供 養を捧げた者の代表ともされ、その行いはきわめて意義深いとされる。何のはからいもさ しはさまず、まったく純なこころをもっての供養であったことが、まづ第一として、はからわ ざるに、それがお釈迦さまの(み仏の)御ン身を養いたてまつったことによって、法が廻施 せられる大切なお命を支え申したことの意義の深さがうかがわれるのである。それはすで に仏事にあずかる(参劃する)すがたでもあろうか。 ご尊前にお水を供えることは仏家においては広く行われ、余宗においては殊に鄭重にな されているようである。さらにはお茶、はなはだしきは酒のたぐいまで供えられる。その 心情は察せられぬでもないけれどいささか凡情に流れてはいないだろうか。 いま一度「供養」の原点に立ちかえってみよう。お華瓶を供え、朝毎にお仏飯を供える。 それはみ仏のお命の尊さを思い恭敬の心をもって捧げつつ、さきに述べたごとく仏事に参 劃させていただくことが第一であろう。 わが身を養うに欠かせないもの・・・。飲む水と食する飯。これによって身体を養い命を 保つことは、法を聞きひらいて真実の願いに目覚めるために、かけがえのないこのたびの 生涯を全うせんがためである。 「お仏飯に養われているんだよ」と子供のころからつねに言い聞かされてきたことである が、まさしくそうであったのである。これはかならずしも寺に生まれ育ったからという狭 い解釈ではなくして、生活の根源をおさえたことばだと思う。 蓮如さまは、つねに「仏法領のもの」とおっしゃったということであるが、まさしく、わた しらは「仏法領のもの」によって養われているのである。 さすれば、お仏飯を供えお供物を捧げるというけれども、むしろ「賜わっていた」わたし なのである。わたしをして、法を聞かしめんがためにこの命を養ってくださってある一切 のご恩が、ようやくにして知らるる思いである。 (昭和53年7月)2006年9月1日