打敷きまいらせて

・・・ご巡化や母に藁敷く草もみぢ・・・

句仏上人が嘗って北陸あたりをご巡錫なされた折、出迎えの人垣の中に、薄く敷かれた草 の茵の上につつましく坐っている一人の老婆の姿があった。 ご法要の後、上人をお迎えしての句会の席に寄せられた右の句を、上人は特選とせられ た。そのお心を測りかねてお伺い申したお側の人たちに 「その孝心なるを採る」と一言おっしゃったという。 上人をお待ち受けしている老いた母に、道辺の冷たさを案じた息子がせめてもの心遺い として、そっと藁を敷いてあげた淳き心とでもいえようか。おそらくその子自身の吟じた 句ででもあったろうか。 わたしに俳句のてほどきをして下さった先師、故・河原白朝師から聞かせていただいた お話である。 ご尊前に打数をかけるたびにフッと思い出しす話である。 お釈迦さまが思惟の座を定めて坐したもうた折、一人の牧童が干草の束を捧げたという 話が伝えられているが、その後、インドの人びとは、お釈迦さまをお迎えしたとき、先ずはお 敷物を差上げたことであろう。 「お釈迦さまのご説法の座に来集する天人が、この"打敷"の上を通って座に集まる」と子 供の頃聞かされたものであるが、説法の座に共に連なろうとの、人びとの喜びに溢れた姿 をあらわすものであろう。 お敷物を差上るということは大切なご説法の座を荘厳するどいうことであろう。「荘厳」 とは単に飾るという意味ではなくして法の座を大切に受けとめるこころであろう。そこに 脆いて深々と頭を垂れて「承問」する姿勢がある。大事な法要の折「打敷」を調えること は、聴附の姿勢を正す心の表現であると思う。 「打敷」をかけ申してあらめて「お荘厳」を拝む気持は、またひとしおである。 (昭和53年8月)

2006年9月1日