ご和讃拝聴
法語カレンダー領解その三
昭和54年度

法身の光輪きわもなく
世の盲冥をてらすなり

『讃阿弥陀仏偶和讃』「真宗聖典」479頁

今日われわれは、「明るい」日暮しを送っているであろうか。日々テレビで放送される ニュースは殺人、強盗、誘拐等々暗い話ばかりである。そしてそれは決して他人事とはい えないものを感じる。何故ならば、その根性はわたし自身にも持ち合わせているものであ るからである。

いま静かに、ひと昔のわが家の暮しぶりを振り返ってみれば今日の生活はたいしたものな のである。食生活、家庭用品、身の廻り等。昔でいえば「分限者(ぶげんしゃ)どん」並 に恵まれているのである。で、ありながら、それを「豊かさ」と受け取り得ず、欲望は、果 てしなくエスカレートするばかりである。「物」は豊かに頂いて居りながら、心はいよいよ貧 しくなるばかりである。その心の貧しさが「世の暗さ」を織り出しているのではあるまい か。

源信僧都の『横川法語』のお言葉がつくづく頂かれる。

それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。身は いやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも、餓鬼にはまさるべし。心におもうこ とかなわずとも、地獄の苦しみには、くらぶべからず。世の住みうきは、いとうたよりな り。人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。このゆえに人間に生ま るる事をよろこぶべし。(下略) 「念仏法語」(横川法語)真宗聖典961頁

「頂戴」するということばは、今日ではすでに死語となったかの感がある。それゆえに潤 いのない殺伐とした今日の世相となったのであろう。

世間並の目で見れば、ずいぶんご不自由であられたであろうに、その晩年において、調べ も高く歓びの歌〈ご和讃〉を歌いあげていかれた親鷺聖人のご心境は、どこに根ざしている のであろうか。心盲た者は闇にあって闇を知らない。光に遇うて、はじめて闇にあったこと を知る。「世の盲冥」をきわみなき「法身の光輪」によって破っていただいたとき、わが身 の事実(身の姿)をも知られ、願われている身の大切さにも気づかしめられる。 親鷺聖人のこの格調高い信心の歌は、まさしく真実の教えに遇い光に照しだされたいの ちの歓びの歌なのである。 いよいよ「如来如実の言」を仰いでいきたいと思うことである。(昭和54年2月)

2006年9月1日