浄土真宗に蹄すれども
真実の心はありがたし
『愚禿悲歎述懐』真宗聖典508頁

かつてブラジルに駐在していたころ、現地の人から「ジャポネース(日本人)の宗教は いったい何なのか?」と質問されて赤面したことがある。あらゆる宗派が踵を接して進出 してきたこともさりながら、そのどれにでもたやすく飛びつき、各宗兼学(?)する無節 操ぶりと、自主性の無さを指摘されたのである。 それはまた、ちょっとでも「ご利益」めいた話にのめりこんでいく、その根性が「エコノミ・アニマル」の基となっているのを、見抜いたことばででもあったのである。 このときの愧ぢる思いは、昨年、鹿児島教区のスローガンとして掲げられた「何を拝むの か」とのことばを聞いたときの感想にもつながる。ほんとうに「(わたくしは)(いま)何 を拝んでいる」だろうか?。宗教の上にさえも、功利心を先に立てる根性は、まさしく貪りの こころであり、神・仏すらも取引きの相手に立てるものである。 親鷺聖人の仰せられる「浄土真宗」というお言葉を、いまいちどよくよく聞かせていた だかなくてはならない。「帰する」とは、そこにすべてを投げだして悔いなしと決定するこ とである。わたしたちはその「決定の信なきゆえに」すぐふらつくのである。「惑う」とは 「或いは」という心である。若しかして若しかしたらどうしょうと、いつもぐらつく心で ある。形は念仏しながらこころは帰命していない。念仏するこころすら持たぬ身でありな がら、念仏するわが姿を誇りたいわたしなのである。いま『悲歎述懐』のご和讃をいただ くとき、いよいよわが身の業の深さのほどが思い知らされる。ここに、いまわたしはわが信 を問われているのである。 この「浄土真宗に蹄すれども、真実の心はありがたし」とのおことばの後には「虚仮不 実のわが身にて、清浄の心もさらになし」とつづけられてある。まったく「真実の心」無 きこの身と知らしめられる。それこそが「浄土真宗(浄土真実の教えの本旨)」であったの である。「虚仮不実」のこのわたしを「悲歎」したもう「如来如実の言」をここにいただく ことである。 (昭和54年4月)

2006年9月1日