小慈小悲もなけれども
名利に人師をこのむなり
『愚禿悲歎述懐』真宗聖典511頁


ひとは、みな名利のゆえに苦労する。名利を追うのか。名利に追われるのか。いづれにし ても名利のゆえに苦労しているのである。 「名」とは人に抜きんでようという勝他の思いである。自己顕示欲である。弱い動物ほど 警戒色で他を威圧しているが、内心は戦々競々たるものであろう。内容の空虚(うつろ)な る者ほど外見を飾る。 「利」は生存本能でもあろうか。生きるためには、あらゆる「物」を取り揃えていかなけれ ばならない。食べる物。着る物。住む場所。人間誰しも「霞を喰って」生きてゆけない以 上、生きるためには、ずいぶんいろいろの「物」が必要である。だが「足りるこころ」を知 らないわれらは、どれほど得られても、なお不足、足らざる思いに駆られて走りまわる。ま さしく「心のために走せ使いで、安きときあることなし」『大無量寿経・下巻』。(真宗聖典58頁)とのおことばのとおりである。そしてこのことも更につきつめてみれば「物」によっ てわれを押し立ててゆこうとする、「物」を砦として己を顕示してゆこうとの思いである。 「名」を求めるこころの裏返しである。真の独立者たり得ない弱さがそこにある。 「名」を求むる者は「利」を失い、「利」を求むる者は「名」を失う。「名」「利」共に求 むる者はすべてを失う。との言葉をかつて教わったことを思い出す。 考えてみれば、この「名」を求める思い=名誉欲は人間独得のように思われる。他の動物 にはないであろうから・・・。さらに「文化人」と自負する者ほど陥ちこみ易い罠のようで ある。

小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもうまじ『愚禿述懐』真宗聖典509頁

との親鷺聖人のおことばは、そうした危い渕に立つ自身への誠めであり、のめりこんでゆ きがちなわが身の痛みであろう。そこに「内愚外賢」、きびしく自己をみつめてゆかれた聖 人のおことばは、また標挙のおことばと併せて、わたくしを鋭く問いつめてくださるので ある。
まこと、仏法の問いはきびしい。深く深く聞思してゆきたいことである。 (昭和54年6月)

2006年9月3日