まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし
『正像末和讃』真宗聖典502頁


小学校、五年生か六年生のときであったかと思う。国語教科書の課目の中で「安心立命」 という語があった。担任の先生が「本庄。君はお坊さんの子供だからわかるだろう。この ことばの意味を述べてみなさい」。わたしには何とも返事ができなかった。おぼろげには、 分っているようでも充分に言いあらわし得なかったのである。友達が皆してどっと笑った。 引き取って先生が、ひと通り解釈されたがわたしは何か落着かなかった。単なることばの解 釈で、ウムと頷ずくものがなかったからだと覚えている。 このことは、長くしこりとなって胸に残った。いまでも、このことばをうまく言い表わせな いけれども、それは「このことだった」と明らかにされ、それが、「このこと一つで良かっ たのだった」と満足できるもの。頷ずかれることであろうと思う。 もともと人間はこのたび何かに遇うべくして、この世に生まれてきたのだという。それが わたし自身の本来の願いといわれる。そのことが成就しないかぎり、このたびの生涯は空 しくなる。
親鷺聖人はその真実なるものに遇い得たよろこびを高らかにうたいあげられた。

本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
『高僧和讃・天親音』真宗聖典490頁
すなわち、わたしの本来のねがいは、さきがけて、如来の方(かた)によって言いあてられ てあったのである。そのことが聞きひらかれたときウムと頷ずかれる。そうだったかと目 の覚めるおもいである。 この真実なるものを見失ったところがら、わたしの迷いははじまり曠劫以来の流転を重 ねてきた。このわが身のすがたを知らしめられたのも如来の教法、み教えによる。

世を観るに溺るる多く
彼岸に至る少し
あるはまたゆきつもどりつ
此岸をさまよい奔る
(法句経・明誓品)

まことに、み仏の教えによらずしては、永劫に抜けでることのない流転の世界である。 この法句経のおことばはさらにつづく。

生死の海荒くして
度ること難しといへど
聞くままに道に入りてぞ
彼岸に度るを得べき
『法句経・明誓品』金子大栄師・著『教行信証講読』による

「聞くままに、道に入る」とは、まさしく聞信の世界であり、「仏法は、聴聞にきわまる」と のおことばのとおりである。さらに「聞即信」とうけたまわるが、それゆえに「このたび さとりを開くべし」であり、「このたび」とは、このたび人間界において真実の法に遇うこと を得たことによって、わたし自身の出世本懐を成就させていただいた喜びである。
ここにわたしはいのちの依って立つべき所を得、一切の縁(えにし)が空しからぬもの であったと、「このたび」とのおことばを今の一点において味わさせていただき、如来の本 願に深く頷ずかさせていただくのである。 (昭和54年7月)

2006年9月3日