念佛成佛これ真宗 万行諸善これ仮門
『浄土和讃』(大経意21)真宗聖典485頁

近頃「生き甲斐」ということが盛にいわれる。反面、自殺の報道も相次ぐ。生きていく ことが容易でないことは事実であるけれど、死を選ぶ外なかったとは痛ましい。 「生き甲斐とは?」。あらためて尋ねられる所以である。ただ今日の日を過しさえずれば ・・・では落着けない。わたし自身の深いところからの突き上げである。 むかしの人は死所を得ることを大切にしたという。たんなる死場所ではない。これで死 ねるという「場」である。それはそのまま、これでこそ、生きていけるといういのちの懸け どころであった。いわば己の「出世本懐」を見出すことであった。 親鷺聖人が六角堂に参籠せられたのも、生き甲斐を求めてのことであられたに違いない。 そして、歌いあげられたこのご和讃のおことばのまことに力強く、そして簡潔なのに打たれ る。「念佛成佛」。弥陀の本願によって、わが身の出世本懐が言いあてられてあったと頷ずか れるとき、はじめて人間に生をうけたことの意義が明らかとなる。 反対に真実を真実と受けとり得ないで、いまにうろついているわが身を見つめてみるが よい。浮草の風のまにまに漂ように事毎に一喜一憂しているさまは、われながらいたましい。 「万行諸善」とはまさしくこのようにうろついているすがたではあるまいか。親鷺聖人は 「これ假門」と決判せられる。聖徳太子のおことばから頂けば「世間虚假」である。 この「假門」であり「虚假」であるということも、真実を知りたもう如来のみ言によら ずしては知り得ないわたしなのである。如来のみ教えによってこそ、虚假を虚假と知らさ せていただくのである。そこに「唯佛是眞」と仰がれ「念佛成佛」このこと一つと頷ずか れる。わが「生き甲斐」はここに開かれ、ここから「人生すべて無駄なし」と、一切がわ たしを生かしてくださったと頂戴される。
「この道より外にわれを生かす道なし。この道を行く」。 (昭和54年8月)

2006年9月5日