浄土を疑う衆生をば
無眼人とぞなづけたる
『浄土和讃』『諸経のこころによりて弥陀和讃・四』真宗聖典486頁

周利槃特。お釈迦さまのお弟子の中で1番愚鈍といわれたこの人に、こんな話がある。 たまたま托鉢におもむいている彼と途上で出会った遊行者、婆羅門世典が論議をいどん できた。
「沙門という字はどう書くか。」
「婆羅門よ。文字くらいを聞いて何とする。義理を問うならば答えてもよい。」
「沙門よ。では我とよく論議するか。」
「汝のごとき盲人、無眼の者が何じゃ。われは梵天とさえ論議を共にするぞ。」
「アッハッハハ・・・。沙門よ。盲人と無眼の者とは同じではないか。二つの言葉を繰返し て使うとは何という煩しいことじゃ。」
不用音心なことばの端をつかまれて、鈍才の槃特は応対の辞につまってしまった。勝ち誇っ た世典の得意のほどが思われる。 ここでわたしは遇法八難の中の一つに、「世智弁聰の難」が挙げられていることを思い浮 かべる。己の知識に頼って、何ごとも判っていると決めている者である。はじめから批判 的、拒否的な姿勢をもって仏法を聞いても何もわかる筈がない。己の物差しで仏法を測っ ているわが身の愚かさが、そうした肝心なわが身が全く判っていないのである。
「浄土を疑う者」とは「浄土」が無くともよい。「地獄」があってもよいと肚の据ってい ることとはちがう。むしろその(地獄の)影に絶えず怯え戦いていながら、強いて懸命に 隠そうとしている強がりではなかろうか。
もとより、仏法が論議のうえで力無きものではない。さきの婆羅門の論難には、槃特に代っ て忽然として舎利弗尊者が現われて、彼と応待して理路整然として能く論破してついに世 典をして開眼せしめたと伝えられる。 仏事のうえでもよく「開眼供養」の儀式が行われるが、この法縁によって「開眼」せし められるのは、われら衆生の側であろう。わたしもまた弥陀の願力によって「開眼」せし められる。それは「判る」ことを積み重ねるのではなくして、「何も判っていないわが身」 とわからせて頂く。わたしはまさしく「無眼人」であり「無耳人」。真実を真実と聞き得ら れないわれであったと、聞き開かせていただくのである。 (昭和54年9月)

2006年9月5日