真の知識にあうことは
かたきがなかになおかたし
『高僧和讃』『源空章』真宗聖典499頁

曠劫多生のあいだにも

出離の強縁しらざりき

本師源空いまさすは

このたびむなしくすぎなまし

高僧和讃・源空章・真宗聖典498頁

このご和讃を口癖に申しては涙ぐんでいたお婆ちゃんがあった。ブラジルで出会った人 である。異国での長い年月の辛苦は額に深く刻みこまれていたが、その顔ばいつも明るかっ た。そしてこのご和讃を口ずさむときは深々と頭を下げて、いかに心底から頂戴している かはその姿全体にあふれていた。

このお婆ちゃんにとって「本師源空」はそのまま「本師親鷺」であった。ひいては折々 に遇う法座でのひと言が、胸に響いた時は逮べている人のことばを通して直々に如来のおこ とばと受取っておられた。

わたしたちは真の知識にあうことかたしと聞けば・・・そうだ。善知識といわれる方はな かなかおられないものだ。と簡単に片付けるが、それは多分に早呑みこみであり、自分の 分別に立って「人無し」と決めているのであって、それは徒らに向うさきばかりを見て折 角語りかけられているまことのことばを聞きとめていないのである。 「人無し」と決めている心は傲慢であり、聞き流している迂濶さは怠慢である。いまひと ついうならば法に接する心構えの浅さでもある。そのゆえにこそ今日に到るまでの「曠劫 来流転」である。

「真の知識に遇うこと難し」とは、遇い得ていながら、それと知り得ないわが身の愚さであ り、驕りである。わが方の問題である。「法」のうえでのことばならば、どの一句もまことな らざるはなしである。ただそれを聞きとめ得ないところにわが業の深さがある。それゆえ にこそ「遇いがたき」なかに「遇い得た」喜びはひとしお深い。

わたしは、今日までにどれほど多くの善き先輩(ひと)に会うてきたことか。それなのに 教えられること多かったご恩のほどを、それとも思うていないのである。だから、教えが身に つかなかったのではないか。われを頼む我執の故に、遇いながらにして遇うていないので ある。 ここに親鷺聖人の「遇善知識」の喜びと帰依のこころの純粋さが拝される。 まことに「法」は「善き人」によってわたしまで届けられるのである。 (昭和54年10月)

2006年9月5日