耕す

一斉に田植がはじまった。ついこの頃まで葎茂るにまかされていた田圃の草が払われ、 掘り起され、満々と水が張られて生き生きとよみがえっている。まだ手作業によるこのあ たりは一鍬一鍬掘り進められて行くが、あたかもそれは「田ン圃さん。起きてくンやんしょ」 と声をかけているかのような風情である。長い冬の眠りからさめた大地はこれから稲をは ぐくむ母としての働きをはじめるのである。
農作業の第一歩はまず耕す。大地に目をさましてもらうところがらはじまる。「文化」と いうことばの源は「耕す」という意味であると聞くが、なるほどと頷ずかれる。教法が伝 え弘められることを「心田開発」といわれることも意味深いことである。 農作業は力の限りをふるい倦まぬ努力の積みかさねによって穫り入れの秋を迎えるまで 限りなく手間がかけられていく実にご苦労多い仕事である。米は穫り入れるまでに八十八 へんもの手間がかかるので、八十八と寄せて「米」と書くのだと、子供のころ聞かされた 話を思いだす。それら全部をふくめたのが「耕す」ということではあるまいか。 わたしの在伯時代に、サン・パウロ郊外で花作りで名を成した石橋さんという方が居ら れ、今なおお元気に仕事に打ちこんで居られるのであるが、この人のお話に「視察に来られ る人は皆してここの地形、土壌を見て『これでよくもまあこれだけの花が出来るものです なア』といわれるが、わたしはいうんですよ。『出来るんじゃなくて、でかすんだ』と、 ね」。その意気ごみと技能には頭が下る思いで頷ずくのであるが、いま一つ思うに、これは やはり「花の方がようこそ咲いて下さる」のではあるまいか。そして大地の徳こそが(こ の花作りを)でかして下さるのではあるまいか。石橋さん。いかがでしょう?。 「耕す」とは、じつは大地の徳を拝んでいき、その徳を頂戴していくことであり、大地の 営みに参加していく光栄ある仕事であると思う。. 心田開発・・・。このこともまた如来の切なるおこころによってわたしの眠りを覚まさせ ていただく如来の営々たるおいとなみであったのである。 いま大地は長い冬の眠りからさめて生き生きとその営みをはじめた。ほどなく青々とし た海原となりやがて黄金波打つ秋を迎えることであろう。 わたしもまた長い眠りから目を覚まさねばならない。 次々と早苗が植えこまれていく情景を見ながら思うことである。 (昭和54年4月)

2006年9月9日