「歎異抄」をいただく
法語カレンダー領解その四
有縁の知識に依らずばいかでか
易行の一門に入ることを得んや
『歎異抄』(序のことば)真宗聖典626頁
自らを語ること少なかった穰聖人が「建仁辛の酉の暦、雑行を捨てて本願に帰す」『御 本書』真宗聖典399頁)とおっしゃったそのおことばは簡潔であるけれど、内容は深い。 どこまでも捨てされなかった自我の深さは、まさしくご自身の迷いの歴史であり、いま捨て しめられたのは本師・法然上によって真実の教えに遇うたことによる。ぞの遇法の喜びを 唯円房自身がまた値遇の喜びとして「幸いに有縁の知識によらずばいかでか易行の一門に入 ることを得んや」と、肝に銘じていられるその随順の心の深さを思う。 「いつ、いかなるとき、いかなる縁によって、いかなる人物に出遇うか。生涯の一大事で ある」という、亀井勝一郎氏のことばが思い出される。 人は、だれしもその生涯はきわめてドラマチックだといわれるが、その内容は多くの人々 との出会いと別離の歴史である。その数多い出会いの中で真実の方向を指し示して下さる お方をこそ善知識という。「真実」は「真実の大」、真実を求めてやまない人によって開顕 される。「よき人」の導きによらずしては、真実を真実と知り得ないわれらなのである。そこ に「遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」との、 聖人の深い感動がある。 わたしにおいては「幸いに」「よき人・親鸞聖人」をとおして本願念佛のみ教えに遇わせ ていただいた。標題のこのことばは本願念佛との出合いである。わたしの永劫の迷いが破 られる一点である。いま振り返ってみるとわたしにもずいぶん多くの人々との出合いが あった。それらの人々の折々のことばがようやくにして今「聞かれる」ことを思うとき、 自身の我執の深さと、それを破って下さった如来の倦むことなきお働きかけを思わずには 居られない。それは「有縁の知識」として入れかわりたちかわりわたしの前に「現前到来」 して下さった本願の歩みそのものであったのである。 (昭和55年2月)2006年9月15日