いづれの行にても 生死をはなるることあるべからず
『歎異抄』(第三章)真宗聖典627頁

『歎異抄』第三章に出ることばである。くわしくいただけば「煩悩具足のわれらは・・・」 とある。全身これ煩悩としかいいようのない、煩悩にみちみたわが身ということである。 それはまた人間の賢らなおもいやはからいではいかんともすることのできない身の事実で ある。わたしたちはまずこのことをとくと承知しなくてはならない。げんに朝起きてから 夜寝るまでの、わたしの言うことなすことすべてわが身離しの動きである。夢の中にすら この思いが動いている。この相を生死流転といわれる。このわが身の相を知らないことが 無明である。 「行」と聞けば聖道門的な修行と考えるが、それに先立って、「自力作善の思い」がある。 われとわが身を律していこうとする考えである。考え、設定していくことはできても、そ のようになっていかないこの身の事実がある。われらのおもいやはからいで解けるほど、 「生死をはなるること」は浅い問題ではない。煩悩の根の深さである。きのうきょう始つ たわたしの迷いではなく、じつに曠劫よりこのかたといわれる。 だが、ここにお念佛に遇うべきかけがえのないど縁がある。人間の思いでどれだけ決めて みても、自身に誓いをたててみても、宿業の事実の前にはあとかたもなく消し飛んでしま うところにこそ、宿業の身といわれる厳粛なただいまのこのいのちがある。繰返えされて きたわが流転の歴史である。そこに久遠劫来、呼びかけたもう如来の本願の歴史がある。 「佛教は、人間の迷いがはじまったところがらはじまったのでありましょう」ということ ばが思いだされる。念佛とは如来の本願の歴史がわたしにいただけたことであり、また念 佛によって本願の・歴史が頷かれることでもあろう。その接点は、じつに煩悩具足のわが身の 事実のところにある。 「ひととうまれた」ご縁によって「ひととなるべき」本来の願い、「わが本願」に気づか しめられる。まことにそれは如来によって先立って開かれていた「生死をはなれてこのた び佛になるべし」との「本願」であったのである。 (昭和55年5月)

2006年10月14日