他力をたのみたてまつる悪人 もっとも往生の正因なり
『歎異抄』(第三章)真宗聖典628頁

若い母親のための水泳教室のことがテレビで伝えられていた。教わる方も大変だろうが、 教える側もまた大変だろうと思う。. 海辺で生まれ育った者には、海はそのままわが家の庭であった。泳ぐこともごく自然に 身についたことであって、何の懸念も力みもなく身体が覚えていたのであるが、大人になっ てあらためて「泳ぎ」に取組むとなるとこれは大変なことなのである。まづ海に対する怖 れと、コツを会得できない焦りと交ごもいたって、水ばかり呑まされてつくづく嫌になる。 どだい身体が浮かないのである。焦れば焦るほど、もがけばもがくほど沈みこんでしまう。 だが、もともと身体は水に浮くようになっているのである。力みをすてて素直に水に身を 任せればふんわりと浮ぶのである。

ふとした機会にそれを会得してみると後は楽なものである。あわてふためいていたのが 嘘のようである。

肩肘張った力みは水の包容性を破り、いわれなき怖れはかえって水底にひきずりこんで いく・・・。一切のはからいを捨てて水に任せるい・・・。さすれば浮かしてくれるのは水の働 きであるこの呼吸は説明しようのないところである。各自身体で会得するほかない。さ て、水に打ち任せてみればなんと気楽なことよ。波のまにまに身を浮かせて、抜き手を切 ることもやめてしばしあたりを見まわしてみるがよい。海の広さがっくづくわかる。

いまここに「お念佛一つにお任せします・・・。」と口では言いつつも、あれこれとはから いを捨てさらぬゆえにいよいよ惑いに陥ちこんでいくわが身のほどが思われる。悪人・凡 夫ということばを先に知って、しかもそれは頭でのみ知っていて心底「わが身は悪き……」 とは思っていない私なのである。この世、五十年。「浮世」といいつつも、それを渡りつく し得ないわが身のほどをも知らず、なまじ「世渡りの術」とやらを知っている小賢さがい よいよわが身を没していくのである。 そうした私であったことを、まづ知らしめてくださったところに如来のやるせなき慈悲 があったのである。このことをこそ、往生の正因と頂く。 如来の本願を「本願海」と「海」になぞらえられたおことばがあらためて頂戴されるこ とである。 (昭和55年5月)

2006年10月14日