親鸞は弟子一人ももたずそうろう
『歎異抄』(第六章)真宗聖典628頁

親鸞聖人は、ご自身、ご本尊真向に深々と頭を下げて静かにお念佛申しておられる・・・。 蓮如さまは、やおら向きをかえて、わたくしどもに、じゅんじゅんとおみのりを説き聞かせ てくださる。そういうお姿であると聞かせていただいたことがある。まことに御両方のお 人柄が髣髴として拝されるおもいである。 ややもすれば「説き手」の側にまわって、「聞かせていただく」心を忘れがちなわたくし にとってじつに「頂門の一針」である。 『正信偈』において、釈尊ご出世の本懐を「唯説弥陀本願海」と仰がれた聖人は、「唯可信 斯高僧説」と、このご文(正信偈)をしめくくっておられる。

わたくしはここに「唯聞弥 陀本願海」こそわが「出世本懐」であったと頂戴するのである。

聖人は関東の地において、縁を求めては広く人びとに法をお弘めになったと聞くが、お そらくは、われと説きつつわれと聞いていかれためであろう。「礫・かわらけのごときやか ら」と言い捨てられる人びとの姿のうえに、人間、ぎりぎりの生きざまのうえにかけられ る如来の本願を見出し、そこに呼びかけたもう「如来如実の言」にわれ自身の「悲願」を 聞きひらいていかれたのであろう。
『大無量寿経』ご説法の終結のあたりにおいていわれる

「佛、阿難に告げたまわく。汝、起ちて更に衣服を整え合掌恭敬して無量寿佛を礼した てまつるべし」(真宗聖典79頁)

とのおことばにわが身の姿勢を正し、方向を持たれたお姿こそ、さきに述べた「ご尊さま 真向き」であり、『大無量寿経』の「身を正し面を西にして」(同じく79頁)とのお姿で ある。 聖人のその後姿こそことばを超えてわたくしに聞かせてくださる千万言のご説法である。 しかも、それをしも「ひとえに弥陀の御ンもよおしにあずかって念佛申す人」とおっしゃる。19 わが身の分限を明らかに受けとめられたおことばが、この標題のお言葉である。 まことに聖人のお心の深さである。 (昭和55年7月)

2006年10月14日