生死いずべしと信じて念佛の 申さるるも如来の御ンはからいなり
『歎異抄』(第十一章)真宗聖典630頁
曽我量深先生は「我々は、まず、佛法によってこの生、人間にうまれたことを知らねば ならぬ」とおっしゃったが、このお言葉を繰返し繰返し味うに、それは「佛法によって」 はじめてこのたびの生に意味が見出され、ほんとうの生が(人生が)そこからはじまると いうことであろう。
わたしが、このたび人間界に生れ得たことは、まったくわがはからいを超えたところのもの である。さらに本願念佛の法の聞かれる場に身を置かせていただくことは「ようこそ」の ことである。 多くの人たちの体験談のなかに、幼ないころ、父・母、また、おぢいちゃん・おばあちゃ んに連れられてお寺まいりした思出が語られるが、そうしたお育てにあずかって「念佛」 に遇うことを得たのである。(迷いの)生死を厭うことすら知らなかったわたしが、生死を はなれ迷いの世界を出ずることを得たのはまったく如来の本願力による。その本願の大道 が頷かれ、念佛が頂戴できること、このわたくしに念佛が申さるること自体がおおいなる 如来の御ンはからいなのである。 お寺にまいり法の座に身を置くことは、わたくしが「詣る」のでなくて「詣らせてもら うのです。」といわれた方があるが、そうだったなあと知らさせていただく。 「我が名、聞こえよがし」との「第十七願」を通してはじめて「第十八願」念佛往生の誓 い(それは願であり、また如来の御ン誓いなのである)を知らしめられたのである。 「生死出ずべし」との誓いに立った本願念佛の申さるる身にさせていただいた時、はじめ て真の人生が開け、全うさせていただくのである。 (昭和55年10月)2006年10月15日