信心のさだまるときにながく生死をば へだてそうろぞかし
『歎異抄』(第十五章)真宗聖典636頁

一日が終ってあたりが暮れゆくころ、心満ち足りたおもいでやすらげる人はどれだけ居 るだろう。仕残した仕事にこころひかれ、一ト日の纒りの無さにいらだたしさと、むなし さを感じつつ、あきらめムードでごまかしていく・・・。そうした日々の積み重ねを生死流 転というのであろう。

親鷺聖人は「本願力にあいぬれば、むなしくすぐるひとぞなき」と高らかにうたいあげ ていられる。如来の本願に遇いたてまつるとき、今日の一ト日空しからずと、わがつとめ (仕事)を通していのちの真実に出会うのである。裏をかえせば、本願のみ教えにあいた てまつって真実に目覚めないかぎり、どれほど長生きしょうとも空しい生涯にすぎないと いうことである。

わたしの筆癖で「・・・いかがお過しでしょうか」という手紙の挨拶の言葉をきびしく注 意されたことがある。「過す」という言葉に「むなしく過す」「いたずらに過す」というひ びきのあることを指摘されたのである。いまようやくそのことがわかる。

『大無量寿経・上巻』のしめくくりのおことばに 「かくのごときの諸佛、各々無量の衆生を佛の正道に安立せしめたもう」(真宗聖典43 頁)とあるごとく、「佛の正道」においてのみ「安立」せしめられる。「安立」とは「安心 立命」。われ生けるしるしここにありということであろう。すなわちいのちの充足である。 「信心のさだまるとき」。それは如来の真実に頷かれ、方向がさだまったときである。そこ に力強い歩みがはじまる。

われわれは、いのちを養うためにそれぞれの仕事を持つ。その仕事にうちこんでいくこと によっていのちを、養いつつ真実の法(教え)に遇うてまことのいのちに目覚めさせていた だくのである。 そこにはじめて生死を通しつつ生死またむなしからずと、このたびの人生の意味が明か にされるのである。

『和讃』にいわく「金剛堅固の信心のさだまるときをまちえてぞ弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」とはそうらえば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取し てすてたまわざれば、六道に輪回すべからず。しかればながく生死をへだてそうろう ぞかし」 『歎異抄』第十五章(真宗聖典636〜637頁) (昭和55年11月)

2006年10月15日