冬長き国を憶う
今年は春さきになってからの寒さがきびしい。何度も粉雪がちらつくのは近年めずらし い。それでも、はや、春の気配がただよう今日この頃である。それだけにいまなお深い雪 の中に埋れている北国のことが思いやられる。 昨夜NHKテレビの「名曲アルバム」の中で警の風景が紹介された「北海道、江差の 風雪はことさらきびしいのです」というアナウンサーのことばはわたしには肯づけるもの があった。 そうした大自然のきびしさに耐えて生き抜く人々の粘り強さは、楽天的な南国の者たち と対象的である。わたしはいまこのことを思いくらべている。 生活環境が格段に乏しかった昔、風雪きびしい北海のほとりで五年の居住を経たもうた 親鷺聖人の胸中に去来したもうたものは何であったろうか。年の半分以上もの日々を雪に 埋れて暮す人々に聖人は何を語られたであろうか。 長い忍従のくらしを共にしつつ、いよいよ深く己が心を見つめ、あらためて人間のくら しの煩わしさと、ままならぬがゆえに一層つのる煩悩のさなかにしていよいよ如来の本願 のまことが頂戴されたのではあるまいか。かつて師・法然上人から聞かれた教法の一つ一 つが証され身にあじあわれたところから、わたしへの「お聞かせ」、ご勧化がはじまったと 思われる。 北国の人々の思慮深さは、酷なまでの大自然のきびしさによって養なわれたものであろ うし、それだけに春の恵みをよろこぶ素直さがそのまま如来の本願をあおぐ純粋さとあら われるのであろう。 「春」に浮かれる前にいま一度静かに己が内なる姿に思いをひそめたいと思う。 (昭和55年2月)2006年10月24日