「木に登らない猿」の話
近頃猿が木に登らなくなった・・・という話を読んだ或る日の。紙のコラム欄である。 「近頃・比叡山のサルが木から落ちるらしいよ。あれはもう野生じゃない。進化したのかな」
「ほう。トレーニング不足かな」
「木登りすることも、木の実を採ることも必要なくなったんですよ」
「何を食つとるんかね」
「ドライブウェーで手を出して、人間さまがくるのを待っていますよ」
喜劇なのか悲劇なのかわからぬと語られている。叡山の観光化につれて、サルが客から食物をもらうの慣れっこになってしまった結果だという。苦労しなくてもたやすく食物が得られる。それはやがて彼らに働くことを忘れさせた。観光シーズンの間は良いとして、冬になって客が来なくなったらどうするのだろう、とも語られている。
「お堂を狙うでしょうね。お供物がある。これなら木に登らずにすむ」
これは単にサル社会の話だと笑っておられることであろうか。物質文明といわれる今日、労せずして簡単に物が手に入ることは、一面において罪悪である」と、この文の筆者は指摘している。
「使い捨て」があたりまえと考えているのは「賜わったもの」であるとの感謝の思いもなく「物」にこめられた他人さまのご苦労も、まして物そのもののいのちも知らないのである。最近の青少年の非行犯罪の激増ぶりは、そのまま大人社会の病んでいる相があぶりだされているものである。働くよろこびと、働いて得た金品の価値観を忘れている暮しかたで、いよいよというときにたちいたったとき、どうしょうというのであろうか。
サルはどうするか。人間は・・・?
「欲しいと思えば親でも殺しかねない現代の怪談を比叡山のサルたちは真似ているのか」。この文章は次のことばでしめくくられている。
「できることなら、一匹一匹捕まえてサルの頭を丸めてやりたい・・・」(昭和55年3月)2006年10月24日