人生に自信を持ちましょう
同朋生活運動教化標語
「人間失格」という言葉が言われはじめたのはいつの頃からであろうか。戦後問もなく発 表された太宰治の小説に「人間失格」という言葉が用いられていたことを思い出す。 当時、十年余りも続いた大戦がぴたりと打ち切られ、それまで張りつめていた心がたち まち崩れていき、事態を正確に把握するだけの気力もなく茫然自失したことである。敗戦 の厳しさを自覚することよりも、いかにして生きながちえるかが懸命のところであった。 それはただ盲目的に(或いは本能的にというか)生き延びていくというだけの思いであり、 真の生きかたなどという崇高な考えは微塵もなく、餓鬼道さながらの生活であった。 餓鬼道は連鎖反応的に修羅道を現じ畜生道を作りなしていった。万事己れさえ良ければ・・・であり、 他人を突き落すことによってのみ自分が立っていける。修羅道でなくて何であろう。 己れの責は省みることなくただただ他人を責めたてていき、権利のみを主張して 義務の観念のない・・・。つまり強い者勝ちとなればすなわち畜生道ではないか。 そうしたなかにおいて、「私は人間として落第です。・・・人間失格・・・」という言葉を聞 いたとき私は愕然とした。 「人間に失格した者とはわたくしのことでしたのね」。しんみりとした口調で話しかけて 来た女子佛青会員の前で、私自身、深く頭を下げる外なかった。 では人間とは何だろう?。人間の資格とは?。自らに改めてそう問うてみたとき何の答 えも持っていないことに驚いた。いや、あわてふためいた。私はいままで何を分っていた のだろう?。一応も二応も答えをだしてみたものの、それは悉く虚しいことばであった。 人間のことばの虚しさをつくづく思い知らされた。そこに「真実の言」を求めずに居られ ない心からの願いを抱いた。 思えば「人間失格」とは真実の人間(真人)であり得ないが故に、それ故にこそ「真人」 でありたいとの悲痛な願いのことばではあるまいか。それはまた人間をして人間たらしめ たいとの仏の大いなる願いから発せられたお言葉でもあろう。このことばを聞き得たとき はじめて「人間の資格なき」痛ましい自身の姿に気付かせていただくのである。そこから、 先づ人間でありたいとの願い(本来私自身が抱いていた根本の願い)を自覚させていだく のである。 餓鬼といい、畜生といい、修羅という。すべては自覚なきが故に一層虚勢を張ったむな しい姿であり、自らをたのむ傲慢の作りなす争いはてなき世界であり、其の所に右往左往 している私こそ、「人生に自信なき者」といわれるのであろう。 敗戦の瓦礫の中から起ち上った日本は日に日に復興していった。生命の逞しさをまざま ざと見せつけられた思いであった。勿論そこには人々の撓まざる努力と尽きせぬ願いが根 底をなしていたのであろう。「無」から「有」を生みだしたともいえるほどの復興ぶりであ り、食に飢え、着るものもなく、住むに家もなかった終戦直後の悲惨さは昔語りとなって、 思い出す者も居ない。 そして今、世は文化の花盛りである。至れり尽せりの文化生活の中にあって、さて、私 は心から楽しい生活をしているであろうか。上っ面だけの楽しみは無数にある。しかしそ れは私を楽しませてくれる前に苦しませる。見るものすべてが欲しく、そしてそれが叶え ぐふとくく られない故に心落着く日とてない。求不得苦である。たまたま得られたものはこれを失う まいとて夜も休まらない。壊苦である。そしてその根底をなすものは飽くなき貪りの心で ある。 物質的には見事に復興し戦前を遙に追い越した日本は、反面、心の世界はいよいよ荒れ 果てていったといわねばなるまい。 心の養いを求めない・・・教えを仰がない・・・生活は餓鬼の世界から一歩も抜け出し得な いのである。終戦当時が無財餓鬼ならば、現在は有財餓鬼である。餓鬼であることに変り はない。 心虚しい故に私どもは上べだけの楽しみを追う。レジャーといいバカンスという。それ は求めても求めても満たされない心貧しき者の悲鳴ではあるまいか。そしていつしか「人 間疎外」という言葉がいわれはじめた。お互いに信頼し合うことのできない世界は何と淋 しいことであろう。 これという場、(安心立命)を持たない歩みであるが故に絶えず何ものかを追うていく苛 立ちと、いつも周囲に引きずられている不安定と、まさに「人生に自信なき」私である。 仏教はもっと現代に合ったものでなければならないとの論をよく聞かされる。一面肯け ないこともないが、問題はその「現代」である。「現代」の相を見ようとて、これまで述べ てきたのである。私は日本の戦後の歩みを概略述べてきたのであるが、その表面はとにか くも、内面においてはここブラジルのコロニアにも通ずるものがあるのではあるまいか。 今日コロニアにおいても文化の花盛りといえるであろう。生活の水準は向上し日系人の 社会的地位も各分野に及んで遜色がない。今後子弟の世代においては更に進展してゆくも のと期待される。 ところで、今、一世と呼ばれる人々が、功成り名遂げた今日にしてその胸に去来するも のは何であろうか。粒々辛苦の上に築きあげられた財政は一応満足すべきものがあるとし て、果してそれだけで満ち足りるか。漸くにして世に取り残されつつある身の寂しさはど うしたものであろう。世代の断層ということばが囁かれる。年代的思想の食い違いは、い づれの世、いずくの所においても起る事態ではあろうけれども、今現に宙分に迫った問題 であってみれば、実に由々しきことである。その断層を埋めるものは親も子もともに人間 としての対話より外あるまい。今にして児孫に語り継ぐべきことは何であろうか。私たち の父祖は、生涯の人間生活を通して人間の本質を問い、その根本の願いを聞いていった。 それは仏の教えに遇うことによって、わが根本の願いがすでにして仏の願いとして示さ れてあったことを頷ずき、それを頂戴することによってはじめて真の落着きと、一切を素 直に受取りつつしかも執われることなき自由の世界を体得していった。それはあらゆる苦 労を「ご苦労さま」と受取ることのできる自信であった。 いまわれわれは「自信」ということばを聞くといかにも肩肘張ったものを思うけれど、 そのような自ら作り出した自信はまことに窮屈でしかも何と脆いものであろう。 いまここに掲げられた「人生に自信を持ちましょう」との、その「自信」とは、仏の願 いを願いとして、一切のものに生かされてあるわが身に気付かしめられるとき「無碍の一 道」と示される念仏の道を歩ませていただくことなのである。 言を重ねれば、お念仏させていただく生活こそ如何なる事態にも惑わされず、心安らか に一切を受取ることができ、人生に自信を持って生き抜いていける生活なのである。これ こそがわが願わしき生活である。1970年8〜10月「照真同朋会報」2006年8月5日