信は義の本なり。事毎に信あるべし。
『17条憲法・第9』真宗聖典964頁
今日、世は不信の時代である。人が信じられず世間が信じられず、いや何よりもまづ、自身が信じられない。確とした自信を持った者が何人あるであろうか。自信は独りよがりやうぬぼれではない。まことの信念をいうのである。自信のない生活は行きあたりばった りであり、いたづらに僥幸をたのみ、何ものかに追われるがごとき焦操にかられてさらに落着のない生活である。 ついには投げやりなその日暮しに流れて無為の日を重ねていく。われ生きてありとの充足感を持たない虚さはやがて虚無的な考えかたになり浮薄な娯みを追うて心はいよいよ満たされない。 ここに「信はこれ義の本なり」と示されるが、何を以って「義」とするのか。 「宜きに随い己れの分限を守り物の条理を乱さざること」。仏教において「義」とはこのように教える。しかしわれわれは何が「宜しき」かを知らない。智眼着たるわれらはひとえに仏の教えに依るほかはあるまい。「真実の義に随順し」と『大無量寿経』にあるがごとく仏の教えに信順するときはじめて己れの取るべき道を知らしめられ、拠って立つべき自信の場を与えられる。 そこにすべてを包みすべてを生かしたもう仏の大いなる願いに目覚めさせられ真の生活が開けるのである。2006年8月5日