歸心

現代ッ子は壮大な夕景を知らないといわれる。 真ッ赤に焼けた夕空と、そのもとで一ト日の営みを終えて静かな眠りに入る天地自然の たたずまいと、そして今日一日のめぐみを感謝しつつ、せいいっぱい働いたことの充足感 を胸に抱きながら家路をたどるよろこび・・・。そして子供にとってもたのしいひとときな のだが・・・。 この「夕景を見失った子ら」はあながちに都会の子供たちに限らない。田舎の子供たち もまた、日が暮れるまでのびのびと遊びたわむれる自由なときを持たない。下校の後も進 学に備えての学習か、それでなければテレビの前に釘づけにされて、大自然に接するここ ろを失っている。それほど「現代」という機械化のなかに組込まれてしまってゆとりもう るおいもなく、したがって情緒の育つ環境をうばわれてしまっている。 わたしらが子供のころ時の経つのも覚えず遊び呆けたたのしさも、一ト丘もニタ丘も越 えて隣りの部落まで「討ち入って」勢力を誇り合った壮大な気分も、今の子供たちには語 り聞かせてみようもない。どだい「世界」が違うのである。時代が違うということは、そ のまますべてにおいて考えかた・受取りかたを変えてしまったのであろうか。 夕景を歌いあげる歌を高らかに合唱しながら、そぞろ里心ついて一散にわが家にとんで 帰ったそのこころはそのまま父・母の懐に飛びこんでいくこころであった。帰るべきとこ ろがちゃんとあったのである。
自然から離れ、大いなる自然のいとなみを見失ったことは、大人においてさらに甚しい。 インドに旅行した人が、かの地の人々の生活のあまりの貧さにおどろいて援助の志ある ことを伝えたとき、インドの人は言ったという。

「インドは貧しい国です。けれども、こころは豊な国です。 あなたがたは、どうぞ、このゆたかな心を存分にお持ちかえりください」。 足ることを知り、たまわった一日の糧に満足しておおらかにぐらしている彼の地の人び との生活態度に、いまわれわれが「経済大国」の中にありながら、こころはいよいよ貧し くなりゆく今日のわが生活ぶりがかえりみられることである。

むかし、人びとは西空のかなたに静かに没していくお日さまさを掌を合せておがみつつ わが帰依所に心を致した。願生のこころである。「浄土」は「西の方」と指さされること は、理論、理屈を超えてこころで頷かれる感覚である。. もともと「西」という文字は夕空のもと小鳥がわが巣に帰って羽をやすめうずくまって 安らかに眠りにつく姿をうつしたものだという。 夕景の深いあじわいは、おのずからいのちのいとしさと、かぎりない願いのおもいを抱 かせる。さらには己れの帰すべきところを求めるこころを引き起す。

一切道俗もろともに
帰すべきところぞさらになき
安楽勧帰のこころざし
鸞師ひとりさだめたり
『高僧和讃・曇鸞章』真宗聖典491頁

との、高僧和讃のおことばが思いだされる。 今年四月、大阪教区同朋大会において獅子吼された武宮礼一師の「帰るべきところあり ゃ?」との問いかけが、いま、強くわたくしの胸をうつのである。 (昭和55年10月)

2006年10月25日