弥陀をたのむは他力の信 弥陀にたのむは自力の信
松扇哲雄師著『おかげさまの世界』の序文の中で米沢秀雄師がこのように述べていられ る。
(曾我量深先生の「信知」というおことばにふれて)「・・・つまり信というのはわから んことをやみくもに信じるのではない。やはりわかって信じるのだと。そのわかるは頭で わかるのでなくて身体でわかるのだと私は思う。身体を持っているものば誰でもわかる筈 だと思う。身体でわかるとはどういうことか。心の底にひびくという形でわかるのではな いか。仏法のわかり方は胸におちる。腹におちるという。これは日本語独自の表現である が、こういうわかり方をするのだと思う」。(後略)
頭でわかるというのは分別である。己れのちっぽけな思量で思いはかる。そこには絶え ず不安な翳りがある。さらには己れの分別で己れを繋縛していく。もとより自由があろう 筈がない。
身体でわかるというのは生活をとうしてわかる。日常の生活のなかから教わるものがあ る。肌で感じとるのである。すべてのものは移り変るということもわれらは生活のなかで 経験してきた。罪深きわが身ということも私自身の生きざまが知らしてくれる。 それでいながらなおどこかに己れの取柄を探し、如来の本願をも天秤にかけているので ある。平素は「さわらぬ神に崇りなし」と逃げていながら、何かあると「苦しいときの神 だのみ」をして、意にそわぬと「神も仏もないものか」と喰ってかかる。神というも仏と いうも自分の都合で立ててみたり倒してしまう私なのである。
われらは「分限」ということを教わるが、到底力及ばぬわが身と知れということである。 仏法によっておのが分限を知らしめられるとき、はじめて如来の本願のお働きがしみじみ と頂かれる。自力かなわぬ身と知らしめられたことも本願のお働きであったのである。 そこに「弥陀をたのむ」と「弥陀にたのむ」(傍点筆者)の一字の違いの意味の深さが思 われる。自力と他力の「水際」である。どこまでも自力執心0こころやまぬわたしのすが たを浮彫りにしてくださる今月のこのおことばである。 (昭和56年4月)2006年10月27日