幸福は作るものではない いただくものだ

さきごろ或る新聞社が街角で道ゆく人びとにアンケートを求めたそうである。「幸福につ いてどうお考えですか?」。答えは勿論十人十色であったが、総体的にいえることは・人び とが抱く「幸福」のイメージがはなはだ曖昧なものであったという。またきわめて控え目 な、だいそれたことを望むでもないささやかな願いが多かったという。げわば庶民の慎ま しさともいえようか。・ しかしこのことは、反面からいえば生きることの「確め」の曖昧さであり、先々を見据 えていないその日まかせの過しかたであり、自身に対する無責任さといえないであろうか。 いま庶民の「慎ましさ」といったが、これはあたらないかも知れない。何故ならばわれ われは楽みを求めるにきわめて貧林女である。今日、「物」の豊さに反比例して心はますます 貧しくなっていくことがそれを物語る。その内容(なかみ)は、ただ楽を求め、今日一日 さえよければという刹那的な考えかたと、我利我利根性のまるだしである。それが事ごと に破綻するとき出てくるものは恨みつらみばかりである。それが更に自身をみじめにして いることに気づいていない。 これを仏は「盲冥」と仰せられ、親鷺聖人は「めしゐ(い)くらきとなり」と左訓せら れている。 いまあらためて「幸福」とは何かを考えてみよう。わたくしは「果報」を「果報」と頂 戴することだと考える。考えるといっても、観念的にでなく生活そのもののうえにである。 わが身の分限を知るのである。それは己が力量を過信するものへの厳しい叱正と、迷妄を 破る如来の御ン智恵である。分限に据ってみればそれは実に豊かに賜っているわが身の果 報である。生かされて生きているのである。いったいわたくしは何を作りでかしているの か?すべて「作られてあるもの」を頂戴しているのである。 「恩徳」とは、もとインドの語「カタンニュー」。「なされたことを知る」であると教わっ た。(松扇哲雄師・『おかげさまの世界』二三頁)わたくしがここにこうして存在するため に、周囲のものがいろいろのことを為ていてくれる。それを頂戴するこころ。むかしの人 は「冥加」といただいた。「幸福」とはまさにわが身の果報を「いただいて」いくものなの である。 (昭和56年5月)

2006年10月27日