心の鏡はお念佛 うつしてみようわが姿
動物のなかでは最も賢いといわれる彼のチンパンジーが鏡の前でどんな反応を示すだろ うか。はたしてそれが自分だとわかるだろうかという「実験」の模様が、先日テレビで放 映された。罪なことをするものだなと思いながらも多分の興味を持ってこれを見守った。 はたして彼らは大騒ぎである。子猿は必死になって母親猿にしがみつき、母親猿は子猿を しっかと抱きしめながら、キッとして彼の敵(?)を見据えるがたちまち怯えて親子とも ども逃げまどう。わけてもボス猿は大変である。忽然として現われた強敵(?)の武者ぶ りにいよいよ闘志を燃してぶつつかっていく。それがわが影と知るよしもなく懸命にむ しゃぶりついていく姿はあわれにも滑稽である。 大笑いしながら見ていくうちにドキッとした。彼らを笑っているわたし自身はどうなの か。嫌な奴だ。面憎い奴だと目をつりあげているわたしは、自分の「思い」で憎い、嫌な 奴だと決めつけているがそれはそのまま己れのうす汚い根性が映しだされているのに外な らない。相手をとうして己れの根性を見破るまでは到らず、いわば己れの(根性の)幻影 と格闘しているのではないか。愛し恋しと見ることも同じようなものである。 さらに思う。わが心のほんとうの姿を見出し得ないわたしだということを。 このわたしの相を如実に照し出し言いあてていられるのが如来如実の言である。 お経を読むうえに「色読」。身体で読むということがいわれるが、これはお経を受持し如 法に修行していくすなわち実践していく響なる人びとと聞く・ひきかえて誓聖人は 「お経に読まれている」とおっしゃったという「わがすがたは如来によって先立って見つ められ、あるがままに映し出されている」と、つつましく頂戴していかれたのであろう。 まことに「経教は明鏡のごとし」である。そして「しばしばたずね、しばしば読めば智慧 を開発す」と。わたしがわたしをたずねる。わたしがわたしに遇える。念仏申させていた だく身の幸せである。 (昭和56年5月)2006年10月27日