聞法は死の準備ではなく 生の糧である
法語カレンダー6月のこのことばにて三輪昭園先生奮次のようなお手紙をいただ いた。 (前略)次に六月の法語カレンダダーについてですが、「聞法は死の準備ではなく生の糧で ある」ですが、短い句でやむを得ない表現とは思いますが、これでは現代にアピールし ようとして却って仏法の真骨頂を失うところがあるのではないでしょうか。 申しあげるまでもないことですが、「生」と「死」は別々に在るのではないことを、宗祖 は「生死」と示されています。単なる「生」は抽象的、生でありましょう。 それに「生の糧」だけでは今の社会で言っている「こころの豊かさ」ぐらいにしか受け とれぬでしょう。 蓮師(蓮如上人)も「さりながら往生の期もいまやきたらんと油断なくそのかまえは候 う」(お文2ノ6。真宗聖典766頁)と申されておりますように必ずしも「死の準備 ではない」とは言いきれない問題を含んでいます(後略)。 私たちは、今日、生きることの意味を大切にたずねているのであるが、それを明らかに ずるについては、死の心構えを抜きにしてはあり得ないであろう。これで死ねるという一 点が定まらずしては、いかほど力んでみても「酔生」であり、ついには「夢死」であろう。 明治の末のころ真宗大学の学生の方がたが歌われた歌の一節 「六字のみ名のもとに死ね」 とのことばを今度知らさせていただいたが、まさしくこれである。この外にわれらは何に 依って死ねるというのか。「親鷺の場合『本願の名号われらにあり』と・本願廻向の名号一 つに生き抜いていかれた」(寺川俊昭師・『真宗興隆の願い』)とおり、わたしもまた「六字 のみ名のもとに死ねる」身でありたいと願う。 さきに掲げた三輪先生から提起された問題にわたしなりに取り組んでみたのであるが・ もとよりわたしの賢しらな「答え」としてではなく、さらに広くみなさまがたぼおたずね したいと、いわば三輪先生とご一緒に「問題提起」させていただくものである』 〈昭和56年6月)2006年10月27日