お念佛との出遇いは 私との出遇いである
先日、思いがけない客の訪問を受けた。ピコーネ・メリ・J(Mary.J.Picone)さん。オッ クス大学から交換留学生として来日、東大・大学院に在って日本の民族学を専攻して居ら れるという。 古くから伝承されている、各地方の習俗をたずねてわざわざ渡ってこられ、殊に仏教の 行事をとうしてこの島の人たちの暮しぶりを聞きたいという。 達者な日本語でいろいろのお尋ねがあったが、わけても「(この村の)みなさんは仏さま のお話を(仏の教えを)よく分って聞いていますか?(自覚して受止められているか?)」 との質問は、仏事が単なる習俗としてのみ執り行われ、そのこころを深く理解し意味を弁 えての、ほんとうの意味での仏事になっているかとの問いであり、今日、仏法がどこまで 生きて働いているかとのたずねであって、そこに「語る」私自身がどこまで体得し、信受 しているかと問われたことでもあった。 「自覚」(自らに目覚める)の教えとされる仏教を「他力」と受けるのはどういうことな のか?との質ねもあり、そこにこのピコーネさんの学びの根本があるものとうかがえた。 今日欧米の人たちのなかに、東洋の文化のなかで人間性の問題がどう扱われているのか。 物質文明に押し流されてしまった人間の本質を仏教でどう示されているかをたずねようと の気運が盛んだとかねて聞いているが、この人もまたそれを訪うての来日であろう。 今日まで素朴に伝承されてきた民俗風習のなかから、日本人のくらしのこころをたずね・ 人間の(洋の東西言わず)ふるさとを求めての巡礼であろう。ここではしなくも私は善 財童子の求法の旅を思い浮べたことであるが、それにつけてもその「ふるさと」・・・にあ りと、納得して貰えるまでのお話ができなかったことを申訳なく思う。お別れの折私とし て申し上げたのは、いずれ折もあらば谷大などを訪れて心ゆくまで親鷺さまのお話を聞か れるようにとおすすめしておいたことである。 むしろここであらためて問わねばならず訪ろわねばならないのは私のほうこそと、気付 かせていただいた。 私もまた、私自身をたずねての巡礼者なのである。 (昭和56年7月)2006年10月27日