如来大悲の本願は わが光なりカなり
就職を希望して来た男を面接したあと、社長はきっぱりと採用を拒否した。「あの男の顔 が気に喰わん」。不審気な面持ちの秘書にさらにつづけて言った。「男は四十(歳)を過ぎ たら自分の顔に責任を持たんと不可ん」。勿論これはきりょうの良し悪しではない。顔に滲 みでている心の影とでもいおうか。事実その男の顔は暗かった。 顔は正直なもので、心のおもいがありありと浮みでるものである。心が暗いのだから ・・・。心の暗さとは生き甲斐を見出し得ないところにある。打込んでいけるものを見出し 得ない虚しさは、やがて投げやりな気分となりその蔭湿な顔は周囲までも暗くする。これ に引換えて、一心に仕事に打込んでいる人の周囲はいつも明るく、その人の顔は生き生き としている。 金子大栄先生は信心の生活を「完全燃焼」とおっしゃった。このことにいのちを懸けて 悔なしと、せいいっぱいやっていけることこそまことの幸せであろう。 われわれはとかく周囲の環境・条件をかれこれ言いたてるけれど、現在の己れの「場」 を生かすも殺すも実は自分自身の胸三寸なのである。 ところでいまわたしはいかにも覚りすましたようなことを言ったけれども・わたし自身・ かつて暗い日々を送った経験がある。 「随所に主となる」ということばは知っていたけれども、その知っていること自体は何の 助けに壌凄かつた.むしろ暮してみじめ意いに讐れたものである・さながら蟻 地獄に陥ちこんだようなやりきれない日々であった。さぞや暗い顔であったに違いない。 対い合う人の顔がみるみるうちに曇っていくのである。. わたしはハッとしたい藁然とした「あんたさんはほんとに「我」の強い人だね」。 見事にわたしを言い当てている言葉である。そう・・・。ここに問題があったのである。い ままでの経歴のうえにあぐらをかいていた自分。いや、しがみついていた自分。それなら ばその内容は何だろう。気づいてみればいつまでも過去の栄光(らしきもの)に執着して・ その先、何の前進もあっていないのである。むしろこれまでの折角のものをわれと壊して いるようなものである。ここらでこれまでやってきたことを尋ねてみよう。そろそろ人生 のしめくくりに取りかからなくてはなるまい。そう気づいてみると、自分の大切さがあら ためて知られてきたのである。 いのちの大切さを教えてくださるもの。それこそ如来の本願である。如来の本願は「教 え」をとうしてわたしに届けられる。その喚びかけ、促しこそ如来の切なる「大悲」であ る。ここにおいて漸くにしてただいま目覚めしめられ本来のわが願いに立つ。 願いに立つ者には明るく力強い歩みがある。 この稿を草するに先立って三輪昭園先生から今月のこの法語に触れて「如来の大悲はわ が光なり。力なり」。で通るところでありましょう・・・。清沢先生の表現法を借りるなら ば、「如来はわが光なり。力なり」とでも言うべきでありましょうか」とのお手紙を頂いた が、そこに如来とわれとでなくて、如来そのもののなかに(如来の本願に)すっぽりと身 を包まれているということであろう。 ここに本願力廻向にたまわった立ちあがり、顔も明るく今日をいただくわたしがあるこ とである。 (昭和56年8月)2006年10月27日