求道とはわが生命に目覚める 自己発見である

ふと思いついて「老」の字の語源を調べてみたことがある。「長毛で背なかの曲った人が 杖をついている形の象形字」とある。(角川版・字源辞典) 老人は杖がたよりである。だが若い者も、いや、人それぞれに何かを「杖」としている のである。曰く。金。若さ。健康。地位。権力。学。はてはお守り。お札等々。数えれば きりがないが、いずれにしても何かにたよっているのである。「人」という字も、これは私 の勝手な解釈であるが、やはり杖をついている姿ともみられる。とにかくわれらはいつも 何かにすがっていて、独り立ちができない。 しかし「人」という字を両足で大地を踏まえてすっくと立っている形どみるのが素直な 見方であろう。これこそ自己本来の願いに立つ姿である。 他の動物たちが終生四と一一追いで走り廻っているなかで、人間は二本の足で立ち、走り廻 る。そして両手を自在に使いこなしてすばらしい進歩をとげた。「道具」を用いるまでになっ た。だがそこから逸脱がはじまった。無限に拡がる欲望は「掴んでも」「掴んでも」飽くこ とを知らず、われの欲望にわれとふりまわされて足もとがお留守になってしまった。つん のめった行きかたになっているのである。 どれほど「物」を得ても満ち足りず、どこまで行っても落ち着かない。むしろ内心の虚 さが深まるばかりである。「虚さ」という形をもって呼びかけるもの。この幽ではあるが深 い願いに目覚めたとき真実を求めての立ち直りがある。これをこそ「求道」という。 われらは「たまたま」この世に生を受けた、いわば生み落された存在であるけれど、「人 と生まるるをいうなり」との親鷺聖人のおことばによって、深い願いに根ざしている身で あることを教わった。まさしく自己との対面である。その願いに目覚めるとき、大いなる ものに促されての歩みがはじまる。 いま一ついえば依るべき大地を見出すことである。真に「安立」せしめらるる所。それ は「仏の正道において」(『大無寿経』真宗聖典43頁)と示される。われらの日常は己れ のはからいによっているので終始不安定である。ここに親鷺聖人は「心を弘誓の佛地に樹 て、念を難思の法海に流す」・(『御本書』後序。真宗聖典400頁)とおっしゃる。わたし もまた大地を踏みしめてすっくと立ち上った本来の姿に戻らねばならない。 (昭和56年9月)

2006年10月28日