浄土の荘厳は 称名念佛より始まる

浄土の荘厳については『讃阿弥陀佛偈和讃』において種々述べられている。しかし正直 に言ってなかなかそれと思い浮べ得ない。その筈である。相対的な見方を以てしているの であるから・・・。
すでにして親鷺聖人が『和讃』に述べられるごとく、それは「唯仏与佛の知見」であっ て到底われら凡夫の窺い知るところではないのである。その本源をたずれば法蔵願力のな したもうところである。つづめていえば如来の本願の成就せられたものである。それはわ たしをしてわたしたらしめるべく真実の願いに目覚めよとの呼びかけであり、いのちの充 果した世界の展開として示さるるところのものである。

人と生まれた意味を明らかにし、生けるしるしありと、わが人生の内容を充実させる。 すなわち「人生荘厳」といってよいであろう。
それは如来の本願に遇うことによって満足する。本願に遇うどは念佛する身とならせて いただくことである。称名念佛こそが、わが人生を荘厳し、そこから浄土の荘厳が始まる のである。

浄土の荘厳とは、まわりの事象、出会う出事一切が一つ一つ意味をもちさらにはわたし を支えていてくださるものとして頂かれていく。その「開かれた世界」として感得し受領 されるこころの風光であろう。であるから相対的にとらえられるものではなくしてやはり 「信知」されるものともいうべきであろうか。 それはお念仏申す身にしてはじめてうなずかれるところのものである。言いかえればわ れらは念仏申させていただいてはじめて一切が無駄なしと満足されるのである。それはす なわち人生荘厳であり、浄土の荘厳のの展開といただくのである

。 本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水てだてなし
『高僧和讃』真宗聖典490頁 (昭和56年10月)

2006年10月28日