佛を念ずる心は 佛に念われている証である
村でただ一人のお医者さん。齢、ようやく初老に入って、誠実な人柄はその温和な顔に 溢れていた。こころもち前屈みにほっほっと歩みを運んで、どのような者の求めにも気さ くに応えて往診して下さる。「たアんだようがっしょうで・・・」(だんだん良くなるでしょ うよ)というのが口癖であった。 決して豊かとはいえない村の経済環境の中に身を置いてまったく「名」にも「利」にも 心を傾けることなく、医道一ト筋に生涯をつくしていかれた。 「たんだ、ようがっしょうで」の一ト言の中に「元気をだしなさいよ」「早く癒って下さ いよ」と、の無限の願いがこめられていたのであろう。わが生業を通して人々のいのちの うえに願いをかけていかれたのである。
わたしの父も母もそして兄も、この先生に最期を看取っていただいた。
この先生が頂戴しておられた法名は「釈普念」であった。お葬式の折、導師をつとめら れた武宮礼一師が「普念。普く念ずる・・・。しかしこの先生の場合は普く念ぜらると読ん で欲いな」と述懐された。まさしくこの先生に捧げらるべき言葉であっだ。村中の人みな から、いまさらのごとく追慕せられるご生涯であった。 その村人の追慕の念。「普く念ぜらるる」その源は、もと、この先生が普く念じていてく ださったことにあるであろう。
「普く念ずる」がゆえに「普く念ぜらる」のである。 仏、念じたもう故に。われら仏を念ぜしめらる。如来本願の生起本末を仰いで「念佛」 の語の頭に「佛」と置いて、「佛念佛」。「わたしはお念佛をこのように申していきたい」と の武宮礼一師のおことばがあらためて思出されるのである。 (昭和56年12月)2006年10月28日