人皆心有り、心おのおの執れることあり
『17条憲法・第10』真宗聖典965頁
最近のある婦人雑誌で「執念」についての特集が編まれているのを読んだ。「淀君」「八 百屋お七」「安珍・清姫」等々・・・。いずれも人に知られている物語りであるが、いま改め て再読して慄然たるものを覚える。ここに語られているものはみな女の執念についてであ るが、「執念」はなにも女だけのものではあるまい。 「人皆心あり」。さてその「心」であるが、それはともすれば執念であり執心であり執着 である。ことごとに執われて周囲にふり廻される生活。何ものかに追われているような焦 立ちの毎日。言うても詮ない繰言。それはやがて我が身にはね返って、それをがむしゃら に押し返したいために、ますます陥ち入っていく世界はすなわち地獄である。限りなき不平 不満は果ては自暴自棄となっていく。 「おのおの執れることあり」。我執の集まりである人間世界であるがゆえに常に我他彼此 と騒がしいことである。すべて「己れのみ善し」とするところに諍い絶えず、自他共に心 安らかでないのはつまり修羅道であろう。 己れさえ良ければと押切って行くのは、餓鬼といわれても仕方あるまい。そこには到底 「和」。やわらぎの世界は展けてこない。この離れがたき我執の身であることを教えてくださるところに仏の教えがあるのである。2006年8月6日