賢しひとに遇いて自ずからに寛かなり

『17条憲法・第7』真宗聖典964頁

今日は一切が機械化された時代である。われわれはもろもろの組織の中に組みこまれ、 種々の制約にとりまかれて、まことに窮屈なことである。さりとていまさらわれ一人奥山 住いもなるまい。お互いに寄り集っての暮しであるからには、そこに一定のきまりがない ことには纒まりがっかないので、おのずと社会の規範が生まれ、いろいろと組織だてられて きた長い歴史の裏付けがある。ただこれを統べていく上に、規約のみでひっくくって行こう とするところに、いろいろのこだわりや無理が生じてくるのである。 人各々が、おのがじし、己れの分限を守りつつ心を寄せ合って行く・・・。僧伽(和合) せつ の世界こそ最も望ましいものであり、仏は切にそれを勧めたもう。それはお互いに生き生 かされていく「和」の世界である。 聖徳太子は夙にそれを念願し、仏の教えを以って治国の根本理念とせられたことはすで に述べたことであるが、ここにその要点を窺うことができる。
「賢しひとに遇いて自ずからに寛かなり・・・」。
責任ある地位に立つ者は、正しい智と温かい徳を以ってのぞむ。そこに自ずから和やかな 僧伽の歩みがはじめられるであろう。それは、また一人ひとりが心せねばならぬことである。 すでに、一切に生かされている我が身であることを、思うとき徒らに他を批判し他を裁こう とする己れを、よくよく思量しなくてはならない。わが立場、与えられているわが位置を思 惟し正受していくとき、下剋上などという不逞の心はおのずから懺悔せしめられて自己の 分限を知り己れの日常生活がそのまま尊とい仏行として頂戴できるのである。

2006年8月6日