和國の有情をあわれみて
如来の悲願を弘直せり

『皇太子聖徳奉讃・9』真宗聖典508頁

本来「法」は、「人」に受け止められたときはじめて成就する。すなわち生きて働くものなのである 。しかし、自らこれを求めて思索し探究する人は稀である。 まして、今日遽しい生活に追いまくられているわれわれにとっては思うてもみないことなのである。 そうしたわれらなるが故に、一入やるせなく思いを寄せ胸を痛めて下さっている お方を仏という。 この仏の心を承けてわれらに伝えられるまでに如何に多くの人々のご苦労があったこと か。「法」は「人」によってわれらに伝えられてはじめて花開く。この「法」を相承して下 さる方を師主といい善知識という。しかし、これは現にわれらが「法」「教え」を受け止め、教 えにつつまれている身であったことを自覚したとき、はじめてこれらの方々を師主と仰ぎ善 知識と頂くことができるのである。 親鷺聖人は聖徳太子を「和國の教主」と仰がれた。そして、太子のご生涯はひとえに如来 真実の法を弘宜したもうお働きであったと感佩せられたのである。太子御ン自ら、仏のみ教 えに帰依して行かれたそのお姿が、そのまま「如来の悲願を弘宜」するお働きであったので ある。 いま念仏せしめられる身にしてはじめてそれが頂戴でき、「一心に帰命したてまつり奉讃 不退ならしめよ」と高らかに讃いあげていかれるのである。

2006年8月6日