たがいに敬い愛し 憎みやねたみの心を 起してはならない
「大無量壽経」のおことば 法語カレンダーに拠りつつ (1972年度)

当相敬愛 無相憎嫉『大無量寿経』真宗聖典59頁

わたくしたちは、争いなき世をこそ願うものである。であるのに世は常に争いが絶えず、 むさぽ わが心もまたさらに満ち足りることがない。互いに貧り合い奪い合って飽くことを知らな い。 由来「闘争本能」も、われらの本能の一つであると嘯く人もあろう。しかしそれは束の 間の勝利に酔い痴れている者の妄言に過ぎまい。「得られたもの」はいつしか「失われて」 いく。それをさはさせじと執われていくはいかに心労多いことであろうか。 互いに助けあい手を取り合って、歩みを共にしていけたら、どれほどか満ちたりた世界 であろう。わたくしたちは、実はそうした世界をこそ願っているのである。その清らかな めしい 願いが、いつ、どうしてこうも濁ったのであろづか、まことの道理を見る心の眼が盲たが 故にである。道理が見失われた世界はすでして人間の世界とはいわれない。さながらに修 羅の世界であり、畜生道であり、餓鬼の境界であるといわねばなるまい。そうした世界に 沈没し流転していくわれらを見放しておれないところに仏の起ち上りがあった。 見失われたわれらの願いを願いとして改めてわれらの前に示してくださる、この仏の呼 びかけに耳傾けてみるとき、それはそのままわが願いであったことを知らしめられるので ある。 (1972・2・28)

2006年8月7日