いつも言葉やさしく 顔いろやわらげ 仲たがいせぬよう

言色常和・莫相違戻・・・『大無量寿経』真宗聖典59頁

人間、40過ぎたら自分の顔に責任を持たなければならないと聞いたことがある。勿論 .もれは容貌(きりょう)の良し悪しをいうのではあるまい。綺麗だけれど、どことなしに険のある顔。 冷い顔。卑しい顔。どこやらさもしげな顔。・・・。さてこう並べてくるとわれながら自信がない。 つまり、顔は心のあらわれであろうから、肝腎の心が端したなくてどうして良い顔が保て よう。 み仏の御顔は光顔巍々としてましますという。それは真の智慧からくる輝きであり、無 限の大悲を湛えた温かさであろう。 せめて和らぎの顔でありたい。『大無量寿経』には「和顔愛語」と示されてあり、親鷺聖 人は、信心得られた身は自から柔和忍辱の心も出で来べしと仰せられたα 今日われらはあまりにも他を裁くに厳しく、己れを主張してゆずらない毎日にして心和 らぐときを知らない。わが顔のほども思いやられようというものである。教えに遇うた身 のせめてもの嗜みとして顔いろやわらかに、ことばもまたつとめて優しくありたい。 それは如来がわたくしにかけていてくださる願いででもあるのである。 (1972・3・10)

2006年8月7日