心のあか(垢)を洗い除いて 言うことなすことを 一致せしめよ

洗除心垢・言行忠信・表裏相応・・・『大無量寿経』真宗聖典65頁

われわれは、思うことを他人に伝えるには言葉を借らねばならない。言いがえれば言葉 を通さねば、思うことを他人に伝えることができない。 したがって「ことば」は心を表すものである。俗に「心にもないことをいう」と言うが それは嘘であって、その場合は本心を秘しているか、若しくはわが心を枉げているかであ る。何故に?。真正面から本心を打出せないからである。そこに無意識の中に打算が動き、 知らず知らずのうちに我執が働いているからである。 「口業」(語るはたらき)の誠めとして、両舌・悪口・わる口・妄語・みだらな語・綺語・巧みに飾ったことば。 と示されているが、そのどれ一つを考えてみても、己れ をあざむき他人を傷つけるものばかりである・ ここに、われらは口業をつつしむには、まづ心を調えることを作さねばならない。 しかもこれは如何に難いことであろう。それはわれらが我執そのものであるからである。 しかしこの我執そのものというわが身が知られることは「教え」に遇うたが故にである。そこに、 「一念一刹那も真実ならざるなく、清浄ならざることなく」われらの業苦を荷負していて くださる如来の大悲を仰ぐとともに「まこと無き」わが身を懺悔せずにはおれない。 「言行忠信・表裏相応」。このうらおもて無き生活こそ清浄の生活であり、「浄土の徳」 である。われらに浄土を祈えと示されることは、この浄土の徳によって清浄の生活をなせ とのおさとしなのである。 いわば信心の生活として心していきたいものである。 (1972・4)

2006年8月7日