幸せになりたい 長生きもしたい でも必ず死ぬ身でもある

稀望僥幸・欲求長生・会当帰死・・・『大無量寿経』真宗聖典74頁

人間たれしも不老長寿をねがう。そして幸せを望むことしきりである。しかし「幸せ」 ということの内容については甚だ曖昧である。というのは「何が幸せ」なのかがわからな いのである。 もっとも人それぞれなので、一応はのぞみをたててはいるがそれがはたして真の幸せか ということになるとすこぶる怪しいのである。 ぎょうこう さらにわれわれは僥倖を頼む気持ちを多分に持っている。俗にいう棚からぼた餅という ことである。そううまくいくものではないと承知しつつも心のどこかでそれを待っている。 それは現在の「場」に心から満足できていない証拠であり、何かをひたすら願っている 心でもある。それが卑近なところ、長生きしたいということであり、とにかく幸せになり たいということなのである。 ここに改めて「いのち」というものを考えてみよう。自覚なき百年は千年に引伸したと ころで詮ないことである。「朝に道をを聞くことを得ば、夕に死すとも可なり」という外典のことばがある。 真実なるものに触れることができ、真実なるものを知り得たならば、それこそ生き甲斐であり、永劫のいのちなのである。 「必ず死ぬる身である」が故に「生きている」ことが尊い。問題はその「長さ」より「深 さ」であり、「何を願って」生れ、「何を得て」死んでいくべきか。つまり本当の願いに 目覚めて行くことである。 如来は、このわれわれの真の願いを知らしめんとて、今に呼びかけたまうのである。 (1972・5・31)

2006年8月7日