人は愛欲の世間にあって 独生独死独去独来す
人在世問・愛欲之中・独生独死・独去独来・・・『大無量寿経』真宗聖典89頁
われわれは、好む之好まぬとにかかわらず、世間の外には在り得ない。いまさら浮世は なれての奥山住いもできまいし、家庭の責任を捨てて一人、行い澄ますわけにもいかない。 いかに煩わしくあろうとも、世間の中に置かれているわが身である。 では大勢の人々に取巻かれて賑かであろうか?。うわべはともかくどれほど人々と打ち 溶けているであろうか。世はまさに不信の時代だといわれる。世間が信ぜられず、人が信 ぜられないということは何と淋しい話であろう。 それは、畢境わが身が信ぜられていないからである。真の目的が定まらず、従って確とし た道を知らず徒らに右往左往する者。それは「願い」を持たぬものの姿である。なるほど われらは、独生独死、ついに孤りなる身である。大勢の中に在りつつついに独りである。 しかし、ここに如来の本願に遇うときはじめて「願い」に目覚め、行くべき道を知らしめ られ、己れの大切さを知らしめられる。 この念仏の一道こそ、われ一人のための道と仰がれる。そしてそれはわれ一人のための道 であると同時に、また万人斎く行かせていただける道ででもあったのである。ここに一人 にして、寂でありつつも賑かな世界ということができよう。あなたもわたしも共に手を取り合える世界である。 『阿弥陀経」の中に「倶会一処」と説かれているおことばが思い起され る。 まこと念仏申す身にしてはじめて独りにして独りならずとはいえるのである。 (1972・6・28)2006年8月7日