田あれば田を心配し なければないで 欲しいと苦しむ
有田憂田〜無田亦憂・欲有田・・・『大無量寿経』真宗聖典58頁
われわれ生活を営んでいくについて「物」を否定するわけにはいかない・こだ今日 のごとく生活文化が華かになればなおさらである.しかも「物」を欲すること簾限りが なく欲するわが心もまた止め度がない。ここにわれらの苦悩がある。 無ければないとて、有れば有るがうえにもと、たまたま得られば失うまいとて・心休ま ることなき日々である。 問題は有ること無いこと、それ自体にあるのではなくして、それにふりまわされていくわ が心にある。 ここに法蔵菩薩、因位におけるご修行のありさまを述べられたお経のおことばが思いお こされる。「少欲知足にて、恚痴に染まること無し」(少欲知足、無染恚痴)とある。足るを 知る者には、不足が無く、したがって、恚(いかり)、痴(かえらぬ繰言)、もない。 われらは宗教の上にすら何らかの代償を求め、取引きにかかってはいないだろうか。む やみに願をかけている者は、やはり、神・仏を相手取って取引きをしている者である。 われらが聞かせていただいている仏法は、そうした取引きに応じてくれるといったてい のものではなく、真の目覚めに立つ。従ってあらゆるできごとに、いまさら、ふりまわされて いかない真の独立者になることである。わが身についた果報は、これを有難く頂戴し、縁つ きて離るるものはこれをさらりと手放して行く。それは冥加を知る身にして、はじめていえ ることである。今日われわれは「冥加」として頂戴し、「仏法領のもの」と尊く受けていく 心を失うたが故に、現代のわれらにはひとしお苦悩が深いのではあるまいか。 (1972・7・26)2006年8月7日