人はこのはげしい悪と苦痛の中で働き どうにか食べているにすぎない
於此劇悪・極苦之中・勤身営務・以自救済・・・「大無量寿経」真宗聖典58頁
人間一代生き抜いていくということ容易なことではない。家庭窃廻し、子供の養育 を両肩に、対社会との交わりに、まこと心安らか日とてない有様である。そしてそれを 総括して言われる言葉が「どうにか食べて行くだけ・・・」というのである・ これはとにかく生きてゆかねばならぬという本能的なものである。しかも人間「食べて だけいけばよい」とは実は誰も思っていないのである。だが、「このどうにか食べてだけいく」 のも大変なのである。まして今日のめまぐるしい世相の変遷の中にあって、人に伍 していくことは並大抵ではない。 しかし、そうした人生の厳しさがあればこそ、いつしか深い願いを持つのではあるまいか。 「何処え?」である。その依って来る所を知らず、指して行く方も思わず・・・ではあまりにも惨めではないか。 そこに抱いていた筈の本来の願・「本願」に気付かしめてくださるところに仏の教えがあ る。禅家によく用いられる言葉に「担板漢」というのがある。板を担っているが故に行く 先の片面だけ見えて反面を見ていない者のことである。「食わねば死ぬ」とのみ見えて 「食うても死ぬ」面を見ていない。したがってその生活は唯、目先にのみ惑わされて真の願いを見失っている。 「然るに世人薄俗にして共に不急のことを諍う」『大無量寿経』である。そこに如来の切なる誡めのおことばを聞く。 この生活の厳しさこそわれらにとって仏道修行の場なのである。 (1972・8・16)2006年8月7日