ひるまずに法を聞けば 必ず悟りの道に入り 心やすからになる
設満世界火・必過要聞法・会当成仏道廣度生死流・・・「大無量寿経」真宗聖典51頁
「法を求むるに頭燃を払うがごとくせよ」ということばがある。ふりかかる火の粉を払う ように、まことに「焦眉の急」なのである。然るにわれわれはいつこうにそうは思わない。 そしてまたその気になればいと容易いことだと思いなしている。だが、仏法に志すことは、 法を聞くことは、大いなる勇気の要ることである。殊に自ら知識人を以って任じている人 においてはなおさらである。 聞法を阻むものとして「八難」を挙げられるが、これはすべて外よりくる碍りではなく して自らの内に在るものである。つまり抵抗を感ずるいろいろの「思い」である。これを 仏教では「分別」と教えられるが、われわれはなかなかこの分別から離れ得ないのである。 しかし、を踏み出し得ない者にどうして百歩の旅が望まれよう。 ここに「ひるまずに法を聞け」と示され、釈尊は「きみ、唯決定してこの道を行け」と 勧めたまう。それは如来の「汝、一心正念にして直ちに来たれ」とのおことばに相呼応し てわれらを、励してくださるのである。この発遣と招喚の事実を証明されてあるのが念仏の教えの歴史なのである。 道はわたしが歩みださないかぎり、わたしの道とはならないのである。 (1972・9・16)2006年8月8日