立ちあがり

このたびお宅でのご法莚の折、私がお話したかったことを概略まとめてみますと、まず 「永代経」(法莚)の意味、字義通りにいえば永代読経でしょうけれど、それをわたしは永 代聞経といただく。私どもにおいてはひたすら「聞く」行きかた一つ。この永代経の法莚 もまた聞法のご縁とされるところに真宗の面目があるといえるでしょう。

お経は本来「読む」のであって、そこに「眼光紙背に徹す」れば、読書百遍、意自から 通じて味わわれ、さらには実践道として「身読」するのでありましょう。
しかしまた「お経に聞く」ということでもあります。「すでにお経に読まれている」との おことばもあります。わたしに先立ってわたしの相を言いあてておられる。「如来如実の言」 であります。ここにはじめて己が相を知らしめられるのであります。 人間の境界についてはいろいろにいわれるでしょうが、ここに私は「聞く」ことのでき る世界であるといいたい。すでにいわれるように「畜生はことばの通じない世界」。「人間 はことばの通じる世界」であると。けれどはたして今日わたしどもはことばが通じあって いるでしょうか。あるものはお互いに自己主張のみであって、相手のことばに耳を借さな い。対話の成り立たない断絶でしかないのではないでしょうか。いま、「先意承問」とある お経のおことばが改めて思われます。

それでも幸いにして人間の世界は聞くことのできる世界であります。わたしがこの世に 生まれ出て最初に聞いたのは「わたしが母だよ」との母の名告りでした。それは人らしい 人に育って欲しいとの親の無量の願いであり、本来わたし自身の願いたるべきものであっ たのであります。それがいつしかわれとわが我執に囚われているその殻を打ち破って、ま ことの願いに目覚めよとの呼びかけが、わたしに「今日」届けられているお経(教法)な のであります。

幸せにしてこの真実の法に遇うことを得た今日、さらに大切に聞きひらいていきたいと願う・・・。ここに私は、人間世界とは「聞くことのできる世界」。いや「聞かねばならない 世界」と、こう申したいのであります。 これにつけてあなたがおっしゃった一言。「それはまた聞こえる世界でしょうね」。この 一言は深くわたしの胸に響きました。わたしの言葉足らずを補ってくださったことであり、 同時にまた、自らが「聞く」と力んでいることえの鋭い誠めのことばとも頂戴したことで あります。まったくそうだったなと思います。

わたしの旅はここにはじまりました。「聞く」と力んでいた私は、「わが名聞かしめん」 と、先立って呼びかけられていたのでした。「聞こう。聞こえる」といわれた武宮先生のお ことばがいまあらためていただかれます。「聞こえてくる世界」なればこそそれに導かれ、 それに励まされつつ己が業をつくしていく。この立ちあがりを頂戴したことであります。 昭和56年6月・稿 昭和61年2月・改稿

2006年10月28日