如来のことばを聞く者は このうえもない仏道にあって ふたたび迷うことがない
聞此経者・於無上道・終不退転。『大無量寿経』真宗聖典86頁
如来のおことばは、教えとなって今日のわれらに伝えられる。その教えはまた何人かの 言葉となって私に語られるのである。この人を善き人(善知識)といわれ、また善き友(善 友)といわれる。 宗祖は実に善き人・法然上人に遇いまいらせてこそ真宗のみ教えに遇われた。しかし、わ れらは、ともすればその人にこだわって、そのことばを心に受けとめない。如来のおことばと して聞きひらき得ないのである。畢境己れの我見に執らわれ、我執に立つが故にである。 難信といわれ、信楽を受持すること甚だ以って難しといわれるごとくにである。しかし 底下の凡愚たるわれらは、唯、如来の衿哀に依らずしては、ついに出離の縁無き身たること を知らしめられるとき、いまは如来のみことのままに信順する外に道はないのである。 み教えに耳傾けてみればそのことが頂かれる。このうえはすべてのことが私にとって教 えであり、一切が無駄なしと、改めて意味を持ってくる。人生に意味が見出されてくるな らばもはや迷うことはあるまい。ただあるものは、どこまでも愚かであり、邪見であり、 僑慢であるわが身えの限りなき懺悔のみである。懺悔こそ迷いなき歩みである。 1972・11・162006年8月8日